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園長の「給田だより」(2018年6月号)

2018/06/01 6:56:02

「お久しぶりです!」   亡母(もうぼ)讃嘆(さんたん)! 乞う、ご容赦! ~ 

 園長に就任以来、『月報』と同時発行してきた「給田だより」、4月号、5月号と休筆を余儀なくされてしまいました。それというのも、3月上旬の入院、4月上旬から中旬にかけては、別の病気での入院・自宅療養と、私にとって不測の事態が重なってしまったからです。「身体のことだから仕方ない」とは思いつつも、毎月続けてきたことを休止せざるを得ない無念さの一方で、改めて健康の貴さ、有難さを実感いたしました。

園への復帰は4月の最終週。子どもたちからは、「本当に心配したんだからね~」「高いお熱大丈夫ですか?お熱ゆっくり直してください」「園長先生、やっと入院終わって、嬉しい!」など、可愛い声が届きました。また、保護者の皆さまからも「お身体大丈夫ですか?」「お大事に!」「ご無理なさらないでください」と、温かいお声掛けをいただきました。もったいなくも、そのことは今も続いております。ご心配をおかけした(している)ことを深くお詫びし、また思いやり溢れるお心遣いに、深く感謝申し上げます。

がむしゃらに無理をしてきたつもりはなかったのですが、今思うと、「少々きつくても、これくらいのことならやり切ってしまおう」という気持ちで、老体に負荷をかけてきたのかもしれません。今は、「無理は禁物!」を自戒の言葉にしています。当面の目標、それは「三つの不足」の解消です。

一つ目が「野菜不足」。入院生活で身に付けたことと言えば、“腹八分目”と“薄味”。健康診断では毎年、医師からの「やせることですね!」というアドバイス。診断直前に多少意識したくらいでは、減量は夢のまた夢。しかし、声を大にして言います。今回は違います!命がかかっているのですから…。我が家の専属栄養士(?)の厳命で、“まず野菜から食べる”の実践。そして私自身も、まるで“主食は野菜!”とばかりに野菜を多く摂(と)るよう努めています。加えて、“空腹感に耐える”修行が効を奏してか、徐々にではありますが、減量への道筋が見えてきました。「リバウンドしちゃった」とならないよう、心中に期するものがある今日この頃です。どうか、腹囲にもご注目ください。

二つ目が「睡眠不足」。起床は従来通りですが、就寝は、疲れが翌日に尾を引かないよう、意識して早寝を心がけるようになりました。同時に、時間の有効な遣い方を工夫し、できるだけストレス(なさそうに見えるかもしれませんが…)を貯めないよう、生活習慣の見直し中です。

三つめが「運動不足」。私にとっては、これが最も高いハードルかもしれません。階段での昇り降りを少し前から心がけてきてはいますが、別な有酸素運動が加われば、さらに効果的なのでしょうね。例えば、ウォーキング。朝は忙しい、夜は疲れてる、休日はゆっくり休みたい…。そんな消極的意識の転換が肝要なのでしょうね。栄養士も兼務している専属トレーナーは、「お父さん、ストレッチ!ストレッチ!」と、私を急(せ)き立てています。

さて、休筆明けの6月号。私事ながら、母のことを書かせていただきます。

平成30年2月25日、満87歳の母が永眠しました(行年89歳)。直接的には、胃がんによる出血性ショック死でしたが、昨年12月15日には脳幹梗塞を発症していました。右半身、特に舌に麻痺が残ったため、話すことも食べることも困難になり、リハビリの甲斐もなく、十分な回復は見込めない状態になりました。水分と栄養分を鼻からのチューブで注入する日々が続く中、主治医からは胃瘻(いろう)を勧められました。しばし悩みましたが、緩和ケアの立場から、ホスピスを検討することになりました。ここならば、という病院が見つかり、2月22日には家族面談を経て、順番待ちを始めた矢先の24日夕方、入院先の脳神経外科病院から、「ホスピスどころではない。血圧が降下してきている。危ない状態です」との連絡。幼稚園にいた私は、家内にすぐに連絡。万が一の時の準備も含めて、取る物も取り敢えず、家内と交代で運転しながら、900㎞離れた四国の松山を目指しました。途中の三重県のパーキングで、携帯に連絡が。「25日午前2時15分、息を引き取られました。安全運転でゆっくりとお越しください」とのことでした。「とうとう来たか」との思いでしたが、三日前に病室で、ひ孫たちの写真を見せながらしばしのひとときを過ごすことができていたので、「死に目に会えなかった…」という念にさいなまれることはありませんでした。病院で母と対面。安らかな寝顔に、家内ともども救われた思いがいたしました。

すぐに日程を決め、通夜、葬儀・告別式の準備。ホスピスの話題の頃から、私なりに覚悟はできて

いましたので、それほど慌てふためくこともなく、むしろ母との最期をしみじみと味わう貴重な時間となりました。永眠した日の夜は、同じ部屋に布団を敷いて、家内と三人の夜を過ごしました。母の隣で寝床に就くというのは、何年ぶりのことだったでしょう。15歳から下宿生活を始め、それ以来、親とはほぼ別居という私にとって、会葬の方々からの「安代さんはおしゃれで、よく帽子をかぶっていらっしゃいましたね」や「お母さまはお花が大好きでしたね」などの思い出話は、母を偲ぶ縁(よすが)となりました。27日に荼毘(だび)に付し、その後の数日間は諸手続きに奔走。狭山市の自宅に戻ったのは、3月3日の夜のことでした。さみしいのは勿論のことですが、長男夫婦や孫たちと一緒に、穏やかな気持ち、そして感謝の心で母を見送ることができたことに、安堵感を感じていました。

3月5日、卒園式のリハーサルを終え、学期末に向けてラストスパートという6日の昼食後、私は今までに味わったことのないむかつき、ふらつきを感じていました。園長室を飛び出して、職員室にいた先生たちに「めまいというのは、どんなものなんでしょう?」と質問。「これは大変!」とばかりに、黒岩教頭は園児用簡易ベッドを園長室に運び込み、横になるよう勧めてくれました。終礼時になっても回復しませんでしたので、「この際は、救急車で」と羽田事務長が119番通報してくれました。定期健診のデータのある佼成病院に予め連絡していたこともあり、救急車は杉並区の佼成病院に急行してくれました。さすが救急車です。あっという間に到着し、すぐにMRI検査。一時は「一過性虚血」との診断でしたが、最終的には「脳幹梗塞」。12月15日に母が入院した際の病名と同じです。となると、やはり遺伝か、と悲観的に結びつけてしまいがちですが、その病名を聴いたときの私は全く違っていました。瞬間的に脳裏に浮かんだ言葉は、「母が守ってくれた!」でした。誤解を恐れずに表現するならば、嬉しくさえ思ったのです。どこからそんな感情が湧いてくるのかわからないまま、時は過ぎていきました。

新年度初日の4月2日、上の疑問を解決してくれるフレーズが、京王線の電車の中で、突然泉の如く湧き上がってきました。それは、「代われるものなら、代わってやりたい」です。痛さや熱で苦しんでいるわが子を前に、世の多くの親が「代われるものなら、代わってやりたい」という気持ちになる、という話はよく耳にすることです。特に母親は、お腹を痛めて産んだ分、その思いに駆られることが多いのではないでしょうか。

医師でもない私に病気のことを語る資格はありませんが、「脳幹梗塞」も生活習慣病の一つ。発症自体は突然のことであっても、病気自体は時間をかけて、見えない形で進行していたはずです。ここから先は、不思議の世界のカテゴリー。信じる信じないは、お任せいたします。母は、3か月前から、一人息子の身に起こる「脳幹梗塞」の負の部分を背負ってくれていたのではないか、と私は思ったのです。母は、「代わってくれていた」のです。私自身の後遺症と言えば、左手足にほんのわずかのしびれ(のようなもの)を感じる程度。少し根を詰めて疲れを感じると、その度合いも多少強くなりますが、手足の動きに全く支障はありません。私は母のお陰で命を救われ、重度の障害を免れた、と信じています。命を懸けて一人息子を守ってくれた母の慈愛に、心から感謝しています。

5月13日は母の日。知人の弁護士が主宰する「第2回 日本の母を讃える講演と歌の集い」に参加いたしました。事前の案内文に、“母に関する歌の斉唱”というプログラムがあり、その中の『無縁坂』の三文字に目が留まり、出席の返事を出しました。『無縁坂』は、1975年に、さだまさしの作詞・作曲、グレープの曲としてリリースされました。年配の男性からは根強い支持があるようで、私のカラオケ第一選択曲でもあります。子育てを坂道になぞらえた歌詞が私の心を捉え、前述の母の通夜、葬儀・告別式でも、母への思慕・讃嘆の思いでBGMとして流しました。この集いに私は、帽子をかぶり微笑んでいる母の「遺影」と、実家のごみ屋敷(母に言わせれば「宝の山」)から発掘(?)した、私の氏名・生年月日が記された木の小箱に入った「へその緒」を持参しました。この集いを契機に、「遺影」と「へその緒」と「無縁坂」が、母への感謝の“三種の神器(じんぎ)”になりました。

5月17日は、本来ならば88回目の母の誕生日。残念ながら、満88歳に達して“八八(はは)”の記念日にはなりませんでしたが、花好きだった母に相応しく、“八七(はな)”の生涯の幕を立派に閉じた、と思っています。今頃霊界で、「一人息子が、佼成学園幼稚園長をしています」と自慢気に話をしているとしたら、それがせめてもの親孝行かなあ…、と。すべては仏さま、皆さまのお陰です!

松森憲二拝

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