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園長の「給田だより」(2019年1月号)

2019/01/10 12:27:14

「子どもの自立を阻(はば)む“三本の矢”」  ~子育ての侘(わび)しさを乗り越えて~

平成最後のお正月を迎えました。昨年同様、今年もよろしくお願いいたします。

二年前、私は、語りバージョンの「給田だより」として、3回の“トークライブ”を行いました。ご出席くださったお母さま方とは、その後メールでの交流などに繋がり、私にとっては貴重なご縁となりました。大変有り難く、感謝しております。

トークライブで最初にお話ししたのが、「子育てとは何か?」というシンプル、かつベーシックなテーマでした。その場で私は、「子育て」を「子どもの存在を丸ごとかかえ、子どもの持ち味を見出し、それを最大限に伸ばし、子どもを世間(社会)に旅立たせるための一切の営み」と定義いたしました。子どもがお腹の中に宿って以来、終始一貫一所懸命手塩にかけての「子育て」、その挙句(あげく)が「子離れ」というのですから、「子育て」は何と侘(わび)しいものでしょうか。愛しい子どもの姿を眺めながら、親の手を離れていくことがたまらなく寂しくなってしまう、という話はよく耳にします。その気持ち、わからないでもありません。しかし、子どもの将来を考えれば、いつまでも親がそばにいなければならない、というのでは、かえって心配です。「子育て」には、寂しさを超越する楽しみや喜びがあります。役に立つ人材を社会に輩出するという人間としての生きがい、満足感があります。子育ての究極の目的は、やはり「子どもの自立を図ること」にあるのでしょうね。

「自立」の意味をもう少し具体的にするために、私はオリジナルの四字熟語で「自考(じこう)自生(じせい)」と表現しています。社会に出て自分で「生きる」ためには、まず自分で「考える」ことが先行しなければならない、と認識しているからです。

ところで、子どもたちの日常生活を見渡してみると、子どもは大人から「考える」チャンスを奪われているのではないか、という現実に直面することがあります。大人は、良かれと思いながら、知らず知らずのうちに、子どもたちを考えさせないようにしている、ということはないでしょうか。子どもの自立を阻(はば)んでしまうもの、それが大人から子ども放たれる「三本の矢」です。 

一本目の矢は、「先走る」です。子どもの考えていること、やろうとしていることは、まどろっこしくて仕方がないと、つい大人がやってしまう“口出し”“手出し”がそれです。子どもが何かしよう、何か言おうとしているときに、先に大人が「ああしなさい、こうしなさい」と言い、さらにはやってしまうことは、子どもの自立を阻む最大の要因と言っていいでしょう。「過保護とは、子どもができることを大人がやってしまうこと」とは、ある小児科医の言葉です。子どもたちの心理に耳を傾けてみると、「どうしてさせてくれないの?もういいや。どうせママがやっちゃうんだから…」。これでは、自立の心は育たず、大切な自己肯定感を傷つけ、自信までも減退させてしまいます。

二本目の矢は、「怒鳴(どな)る」です。子どもにとって、親は絶対の存在。親から怒鳴られてしまうと、子どもたちの心に湧き上がってくる感情は、「反発」「萎縮」「不安」…。怒られないようにするにはどうすればいいのか?答えは簡単です。怒られないよう、親の気持ちを忖度(そんたく)して、自分自身の考えを引っ込めてしまう。そのほうが、怒られなくて済むからです。それが子どもたちなりの処世術だとするならば、何と悲しいことでしょう。

三本目の矢は、「突き放す」です。「勝手にしなさい」「ママは知らないから」などの言葉は、いくら本音ではないとしても、子どもたちには、見事にその言葉どおりに伝わっていきます。見捨てられ感で、子どもたちの心には不安感が募(つの)ります。「愛の反対は“無関心”」とはマザーテレサの名言です。「無関心=愛されていない」の回路を、子どもたちに作ってしまっては、元も子もありません。悪習慣からつい思わず禁断の一言が出てしまったら、躊躇(ちゅうちょ)なくぎゅっと抱きしめ、「違うよ。ごめんね」と謝ることをお勧めいたします。

上の「三本の矢」の戒めは、3歳~6歳の幼児を対象としており、対象年齢が上がれば、当然相応の触れ合い方が求められます。しかしこの戒めは、年齢を問わず、人間関係全般において、良好な関係を築いていく上でも有益な示唆となることを付記し、2019年の幕開けといたします。

松森憲二拝

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