園長の「給田だより」(2015年7・8月号)
2015/07/01 12:22:32
「“祖父性”に目覚めて」 ~ 目の中に入れても痛くない! ~
私事で恐縮ですが、5月18日の12時24分、私は念願の“リアルジイジ”になりました。長男夫婦に無事、第一子が誕生したのです。我が家にとっては、80年ぶりの女の子。時節柄か、浮かんだ川柳が、「王室の次は我が家のプリンセス」。誕生から約1か月が経ちましたが、我ながら驚くくらい、そして恥ずかしいくらいに、初孫への思いは日に日に募っております。長男とは別所帯ですので、毎日会うことはできません。それだけに「今頃どうしているのかな?」「おっぱいはちゃんと飲めているのかな?」という気持ちが湧き上がってくるのは、自分でもおかしいくらいです。「孫を愛おしいという気持ち」を“祖父(母)性”と呼ぶならば、私は間違いなくそれに目覚めて しまいました。我が子誕生のとき、「我が子愛お し」という感情があったことは間違いないはずですが、その後の成長過程でさまざまなことがあり過ぎて、その感覚を忘れてしまっていたのかも しれません。もしかしたら、今の年齢だからこそ湧き上がってくる感情なのかもしれません。加えて、幸いにも過去3年間、可愛い園児たちとの 交流があったことが、私自身の祖父性の開発をより深くしてくれたのかもしれません。いずれにせよ、孫とは無条件に可愛い存在であります。「目の中に入れても痛くない」という慣用句に、思わず「ガッテン!ガッテン!」、です。
初孫の誕生は、私の中に眠る、何とも言えない甘酸っぱい感情を引き出してくれましたが、それのみに止まりませんでした。園長としての心境や心構えにも、変化を与えてくれたのです。
第一に、園児たちを眺める気持ちが大きく変化いたしました。具体的には、全園児に対し、「大きくなったねえ」と思うのです。入園して 3年目の年長さんたちに対して、「大きくなったねえ」と声をかけることはよくあります。しかし、年少さんに対して「大きくなったねえ」とはほとんど言いません。でも、今は違います。年少さんに対しても(身長の低い年少さんにさえも)、思わず「大きくなったねえ」と声をかけたくなってしまう心境でいるのです。それは、生後1週間の孫を両腕に抱き、一か月検診を待つ孫の実情を 垣間見たからだと思います。考えてみれば、物言わずただ泣くことが仕事の赤ん坊が、4年も経てば、「○○組、○○○○です。4歳になりました」と多くの人々の前で自己紹介することができるようにまでなるのですから、これはまさに「奇跡」としか言いようがありません。“人間の いのちの不思議さ”、“目の前に存在しているそのままの貴さ”、そして“母親の存在の偉大さ”を、いま痛感しています。
二つ目は、園長としての日々の心構えです。私は、約20年間、18歳~22,3歳の女子学生を 教育し、社会に送り出す立場におりました。その前職から転じた幼稚園は、まるで別世界。男女を問わず、園児たちの可愛いらしさは格別のものでした。1年目の運動会の際に、ある方が仰ってくださった、「天使に囲まれたお仕事ですねえ」というエールは、生涯忘れることはありません。純真な子どもたちは、私にとっても大切な宝物です。その認識は、園長に就任して以来今日まで、一貫して変わることはありません。
ならば、何が変わったのでしょうか?それは、我が孫に注ごうとしている同じ目線で、園児一人ひとりを見守っていきたい、という、今までとは若干ニュアンスの違う心構えです。もちろん肉親の情と、保護者の皆さんからお預かりしている園児への責任感は、当然異質のものであります。また、メロメロジイさんと教育機関の長との間に、一線を画さなければならないことは、十二分に 承知しております。しかし、初孫が引き出してくれたこの感情を、園児一人ひとりに注いでいきたいという気持ちが日に日に増してきているのは 事実です。孫誕生以来の私は、孫への視線と同じように、園児一人ひとりの瞳を見つめております。
そう思うようになった背景には、間違いなく、私の尊敬する人物の存在があります。その人物 とは、学校法人佼成学園の創立者、庭野日敬先生です。庭野先生は、立正佼成会初代会長であり、多くの方から「開祖さま」と尊称されていますが、私が「開祖さまのような人間になりたい!」と 思うようになったのは、20代前半の頃でした。 あるエピソードを耳にしたのがきっかけでしたが、そのときの感銘は非常に深く、その後の私の人生を大きく左右した、と言っても過言ではありません。そのエピソードとは…?
昭和40年4月11日、開祖さまは盛岡市で行われたある大会にご出席になりました。その日は、季節外れの雪の日で、とても寒い日でした。開祖さまは、大会終了後、花束贈呈の7歳の少女K ちゃんを控え室にお呼びになりました。開祖さまは、礼服であるフロックコートのボタンを外し、その子をコートで包み込まれました。そして、「ああ。寒かったろう。寒かったろう」と言いながら、コートの上から手でさすって温められたのです。その光景にじっと目を凝らしていた一組の夫婦がいました。Kちゃんの両親です。実は、当時、夫婦間にはトラブルがあり、父親は別居していたのです。開祖さまは、その事情をご存じではありませんでした。開祖さまの我が子に対する慈愛の姿を目の当たりにした父親に、予期せぬことが起こりました。何と、妻と娘に「俺が悪かった。許してくれ」と詫び、家に戻ることを約束したというのです。赤の他人である開祖さまが、我が子に注ぐ愛情に触れ、父親、そして母親は、親としての自覚を呼び覚まされたのだと思います。他人の子であっても、我が子と変わらぬ愛情で包み込まれる開祖さまは、巧まずして、その両親を本来あるべき姿に取り戻され、崖っぷち寸前の 一家を救いの道に導かれたのです。そのときの当時、開祖さまは58歳でしたから、いま思うと、“おじいさんと孫娘”の姿だったかもしれません。
この話には、後日談があります。開祖さまとKちゃんとの運命的な雪の日の出会いから40年後、私は、東京でKちゃん、そしてKちゃんの子、つまり元のさやに収まった夫婦の孫に出会うことになります。その孫は、私の前任校である専門学校に入学し、2年間の学生生活を送ることになります。その学生の母親が、開祖さまから温かい手を差し伸べられたKちゃんだったのです。「開祖さまのような人間になりたい!」と思うきっかけとなった、私にとって忘れ難いお話のヒロインが、私の目の前に現れたのですから、そのときは本当に驚きました。オーバーな表現を用いるならば、歴史上の人物に出会った、かのような感激でした。
開祖さまは、他人の子も我が子と同じ眼差しで慈愛を注ぐと書きましたが、本当にそうだったのでしょうか?私には、そうだったに違いないと確信できる根拠があります。それは、開祖さまの三女で、佼成学園幼稚園3代目・6代目園長である泉田佳子先生の「開祖さまは我が子も他人の子も同じように可愛いと思っていた」との言葉です。
若き日の泉田先生は、父親である開祖さまに、肉親としての愛情を求めていました。しかし、多くの人々を救うために、「まず人さま」という 姿勢を貫かれている開祖さまは、家族以外の人々に目を向けている、としか、泉田先生には思えませんでした。そんな父親に対し湧き上がってくる感情が、「父なのに、何故!」という責める気持ちでした。泉田先生は、娘としての願いが叶わないならば、私は私の道を行く、とばかりに反発心を深めていきます。しかし、時を経て、ある思いに至るのです。「父は、我が子を可愛いと思っていないのではない。我が子も他人の子も 同じように可愛いと思っているのだ。我が子だけに愛情を、と願った私が、父の深い思いをわかっていなかったのだ」と。そう思えたとき、長年の父親に対するしこりは薄れ始め、「肉親である父」は、「師である父」へと昇華していったのです。
「我が子も他人の子も同じように可愛い」と、口で言うのは簡単です。しかしながら、実際には、 なかなかそうはいきません。どうしても、エゴ(自己中心の心)が働き、我が子だけが可愛い、となってしまいます。しかし、開祖さまは、決してそうではなかったのです。
「開祖さまのようになりたい!」との憧れは、40年たった今でも道半ばです。しかし、その果てしない道のりを、開祖さまが創立してくださった佼成学園幼稚園で、一歩一歩前進させていただけている幸せを、いましみじみと感じています。
初孫の誕生は、ジイジになれた喜びと同時に、園長としてこれから歩むべき道筋を与えてくれました。私の当面の精進目標、それは「目の中に園児入れても痛くない」(二代目求道)です。
※ママさんバレーの中間報告です!
6月16日開幕の世私幼バレーボール大会、佼成学園幼稚園チームは、リーグ戦第1戦、第2戦の 玉川、銀の鈴の各幼稚園を、ともに2-0で撃破、予選リーグ1位通過がほぼ見えてきました。 目指すは、最終日(26日)Aコート、最終試合での大勝利!女王の座も見えてきた!
松森憲二拝