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園長の「給田だより」(2015年10月号)

2015/10/02 7:09:08

「子どもは“一人前の自分”を生きている!」 まず「受容」から始めよう!

少し前のことになって恐縮ですが、一学期初めの頃の出来事です。入園して間もないKちゃんは、バスを降りるとまっしぐらに玄関の私を目指し、「園長先生~」と言って抱きついてきます。もちろん私も、「Kちゃん、おはようございます」と言って、両腕でハグ。「親御さんの愛情をたっぷり受け、スクスクと育ててもらっているんだろうな」と思いながら、毎朝Kちゃんと心温まる交歓を続けておりました。ある日のこと、Kちゃんは、私を抱っこしながら「頑張ってね(!?)」とつぶやきました。(抱っこされているのは、あくまでも私であって、「Kちゃんが抱っこしているんだよ」というオーラが伝わってきます。)さらに、別の日の帰り際には、玄関で、何と「園長先生、頑張ったね」(!!)の一言を残してバスに乗車していきました。ママや担任の口ぶりを、そのまま真似したのかもしれませんが、Kちゃんの「上から目線」(?)は、決して不快ではなく、むしろ喜ばしくさえ感じたのです。同時に、Kちゃんにとっては何気ない一言が、私に大きなインパクトを与えてくれました。少し大袈裟に言えば、“悟り”に近い感覚です。「そうか。わずか3歳の子どもであっても、本人は自分自身のことを、“一人前”の自分だという意識を持っているに違いない」という気づきに、目から鱗が落ちた思いがいたしました。

私たち大人は、日頃、子どもたち(特に幼児)をどんな目で眺めているでしょうか。当然のごとく、「年端(としは)のいかぬ幼子」と見ています。一方、当の子どもたちは、自分自身のことをどのように見ているのでしょう。「自分のことを幼い」と思っているでしょうか。大人に比べて劣っているとか、未熟な人間だとか、そのような感覚でとらえているとは思えません。悲しいことではありますが、虐待を受けて気力を喪失していたり、親や周囲からよほど「あんたはダメな子」とディスカウント(心理学用語で、自分の価値を値引きすること。)されてきた子どもならば、もしかするとそういう感情が潜んでいるかも…。しかし、それはあくまでも稀なケースであり、ごく普通に健やかに育ってきた子どもならば、自分のことを“一人前のこども”と思っているに違いありません。つまり、子どもは、“一人前”としてその子自身を生きているのです。この“一人前”という思いこそが、子どもたち自身の宝物であり、現代の子どもたちに欠けていると言われる「自己肯定感」の土台であると、確信しております。その“一人前”の思いが温かく育まれるのか、冷淡に打ち砕かれるのかは、大人の関わり方ひとつで決まってしまいます。例えば3歳の子どもならば、自分のことを“一人前の3歳”と思っているのですから、その“一人前”という自覚を傷つけることのないよう、十二分に心したいものです。

子育ての本に必ず出てくる、「子どもと同じ目の高さになりましょう!」は、文字通り身体を低くして、子どもと目線を合わせることを意味しています。しかし、それだけではないはずです。大人が子どもの意識にできる限り近づいていくこと、つまり、「子どものありのまま(“一人前”という意識)を100%受容していこうとする姿勢」をも含んでいると、私は思います。

私のモットーの一つに、「1J3K」がございます。(「女子高生」を意味する「JK」とは違いますので、念のため…。)これは、人間関係を円滑にしていくための心構えを、私なりにセレクトしたものですが、最も基本となるものが、一つのJである「受容」(=受け入れて取りこむこと)です。3Kとは、「呼応」(=一方のものが呼べば相手が応答すること)、「傾聴」(=熱心に聴くこと)、「感謝」(=ありがたく感じて謝意を表すること)のことです。人さまに向き合うとき、いつしか、これらの言葉を心の指針・支えとするようになりました。子どもに向き合うときも、基本的な姿勢に変わりはありません。園児の存在自体を心底から受け入れ、呼ばれれば「ハーイ」と返事をしながら手を振り、子どもの言葉と心に耳を傾け、日々の出会いを有り難く思う。思えば、園長のなすべきことは、この「1J3K」に尽きるような気がしてなりません。

幼いながらも自分のことを“一人前”と受け止めてもらえる喜びは、さぞかし大きいことでしょう。ご家族の皆さま、お子さまを目の前にしたとき、特に何かで注意をしなければならないときには、まず心の中で「一人前の○○  ちゃん」と一回、いや三回唱えることを、心からお勧めいたします。Let’s  try.

松森憲二拝

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