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園長の「給田だより」(2016年2月号)

2016/02/10 8:02:13

「子どものウソにどう向き合うか?」  ~ともに成長するきっかけに!~

「愛の反対は憎しみではなく無関心です」とは、マザー・テレサの有名な言葉です。愛する子どもの発言や心の動きに関心を寄せるのは、親として当たり前のことのはずなのですが、時折、信じがたい情報が耳に飛び込んできます。「それが親のすることだろうか?」と思わせるような虐待が行われたり、そこまでひどくなくても、日常生活の中で子どもの面倒をスマホに任せたりするとか…。マザー・テレサがご存命ならば、想像を絶するほどの深い嘆きの声が聞こえてきそうです。

子どもへの関心なしに子育てを語ることはできません。ただし、神経質になり過ぎてしまうと、かえって子どもの心を傷つけてしまうことがあり得るということを、我々大人は知らなければなりません。“幼児のつくウソ”が、その一例です。

 「ウソに神経質になってはならない」と書けば、皆さまからお叱りを受けてしまいそうです。もちろん、ウソはいけないことに決まっています。子どもたち自身にも、しっかり刷り込まれています(安心してください。知ってますよ!)。しかし、そのウソを一方的に「ダメ」と決めつけてしまうことで、かえって子どもの心をゆがめてしまう時期もあるのです。「ウソをついてはいけない!」という叱声が、「あなたはウソつきの悪い子、そんな子は大嫌い!」という否定的なメッセージになってしまう危険性を、見逃すわけにはいきません。

幼児のウソの特性を理解する上で、手元に貴重な資料がございます。平成25年11月1日発行の世私幼機関紙『せしよう』に掲載されている「嘘について(幼児のつく嘘)」という講演レポートです。その中で、世私幼顧問で愛珠幼稚園長の天野珠子先生は、幼児のウソを三分類されています。

(1)自分に不都合な場合や失敗したとき、非難や叱られることから逃れようとするためにつくウソ

(2)親や先生、友人などの気を惹きたい、話題の中心にいたい、など自分に関心を向けてほしい場合のウソ

(3)夢や想像と現実とを混同しているときのウソ

年齢的に、幼児期のウソは、大人が心配するほどのものは少なく(問題にすべき悪意のあるウソはそう多くない)、むしろそれらを、より良い親子関係づくりに活かすべきだ、と私は考えています。 

一つ目のウソ、例えば、何かしてしまったときの「僕じゃないよ」の言い逃れだったり、「○○ちゃんが悪いんだよ」という他に責任を押し付ける場合などは、言わば自己防衛本能がつかせるウソです。子どもにしてみれば、それほどの悪気はなく、「つい、思わず」というほどのものでしょう。もちろん、これらに対し、自己責任の大切さを伝えるためにその都度注意していくことは必要なことです。しかし、くれぐれも留意しなければならないのは、頭ごなしに叱るのではなく、言い訳をしたくなる気持ちをまず理解した上で、それがどうしていけないかということを、淡々と伝えて いくことです。大人が冷静であればあるほど、伝えたい内容はストレートに伝わっていきます。 本人も、いけないことはわかっているのですから。

二つ目のウソからは、子どもの内心の切ない気持ちが伝わってきます。例えば、実際はそうでなくても「今日、先生に褒められた」とか、行っていないのに友だちに「休みに○○に行った」など。この種のウソについては、子どもの心に何か満たされないものがあるのではないか、仕事や下の子の世話などで無関心になってはいないか、などを振り返る絶好のチャンスととらえてみるのはいかがでしょうか。しつけが厳し過ぎないか、親のこだわりが強すぎないか、過度の期待がなかったか、などの内省は、より良い親に成長していくための登竜門である、と言えば言い過ぎでしょうか。

三つ目のウソは、言わばファンタジーの世界です。幼い子どもの場合、夢(期待)と現実を混同し、夢を本当のことと思ってしまうことがあります。3、4歳代には特にそれが顕著で、特にテレビや絵本などに関心の強い場合、憧れの主人公に成りきってしまうことがあります。また、就寝中に見た夢と現実との混同もあります。これらは、幼児特有の一過性のものですから、「そんなことを言って!」と目くじらを立てることなく、相手に調子を合わせ、ヒーローやヒロインにならせてあげてください。きっと喜びますよ! 

松森憲二拝

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