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園長の「給田だより」(2016年7・8月号)

2016/07/01 7:04:21

「もう一つの“五育”のすすめ」   ~天から降りてきた「実践的保育論」!~

教育における「○育」と言えば、皆さまは何をイメージされるでしょうか?やはり何と言っても、「知育」「徳育」「体育」でしょう。そして今日、学校教育の中にもすっかり定着してきたのが「食育」です。つい最近になって、木育(もくいく)というのがあるのを知りました。「市民や児童の木材に対する親しみや木の文化への理解を深めるため、多様な関係者が連携・協力しながら、材料としての木材の良さやその利用の意義を学ぶ教育活動のこと」だそうです。他にも、マイナーながら(と言えば、各関係者に失礼ですが…)花育(はないく)」「服育(ふくいく)」「住育(じゅういく)など、教育の分野には多岐にわたる新語・造語が、メジャーデビューを目指してスタンバイしているようです。

今号の「給田だより」では、上の「知育」から「木育」までを、幼稚園での保育活動に当てはめながら、改めて幼稚園生活の意義について考えてみたいと思います。

まず、幼稚園における「知育」とは何でしょうか?佼成学園幼稚園の案内リーフレット表紙の キャッチコピーである“子どもたちの「できた!」「わかった!」「やってみたい!」”(DWY)は、まさに「知育」の目指すものそのものです。知的好奇心を基として、子どもたちの対応力や積極性を養っていくことが、「知育」に他なりません。

次に、「徳育」とは?佼成学園創立者庭野(にっ)(きょう)先生は、「佼成学園は、青少年に知育・徳育ばかりでなく、これらと併行して宗教的情操教育をほどこすという方針を鮮明に打ち出した学校であります」と明言しています。文脈からすれば、宗教的情操教育こそが「徳育」に当たると言えましょう。庭野先生は、「正しい心を育て、人間らしい心を はぐくむことこそ、すべてに優先すべき大事である」とし、「人間にとって一番大事なのは、人さまの心、つまり、人の喜びや悲しみがよく分かる心だ」とご指導くださっています。その上で、「礼儀と親切という二つの美徳をおし進めることに最大の重点を置いてもらいたい」と念願しておられます。子どもたちとの「三つの約束」のうちの 「あいさつ」と「おてつだい」は、上の礼儀と親切を、より具体的に表現したものなのです。

「体育」についてはどうでしょうか?「日本一の幼児体育園」をスローガンにしている佼成学園幼稚園なのですから、「体育」は本園の真骨頂とも言えましょう。「すべての子どもたちを、運動大好き人間にする!」という熱い願いは、プールを含む正規の体育関連授業のみならず、広い園庭や体育館で繰り広げられる日常の遊びの中にも、深く息づいています。とりわけ、10月の運動会は出色のイベントであり、私は4年前から、「給田 オリンピック」と呼んでいます。園児たち、いや、佼成のキッズアスリートたちが与えてくれる感動が、あまりにも素晴らしいからです。

「食育」と言えば、一日保育の際の「お弁当の時間」が思い浮かびます。愛情こもったお弁当の、子どもたちに及ぼす影響力は、計り知れないものがあり、「食育」の絶好の機会となっています。他にも、野菜づくり、カレーパーティー、さつまいもの栽培など、子どもたちの「食」に対する認識を深める機会が用意されていることは、皆さまよくご存じのとおりです。

最後に「木育」についてですが、木を基調とした園舎が、子どもたちの心に、木の味わいの良さを伝えてくれているとしたら、これも立派な「木育」かな、と思っています。

「知育・徳育・体育・食育・木育」、すなわち「五育」について、「ちいく・とくいく・たいいく・しょくいく・もくいく」「ちいく・とくいく・たいいく・しょくいく・もくいく」と何回も口にしているうちに、まるで天啓のように、もう一つの「五育」が脳裏を駆け巡るようになりました。「稚育…得育…耐育…触育…目育…」。そうだ、 「稚育」「得育」「耐育」「触育」「目育」が大切なのだ!こんな思考回路を、他人は、語呂合わせとか言葉遊びとかと言って、嘲笑するかもしれません。しかし、私は本気です!それらは、単なる言葉の言い換えとかではなく、大切な教育的実践を含んでいるのですから。一つひとつ、ご説明してまいりましょう。

まず、「稚育」です。「稚」の文字は、「幼稚」「稚拙」といった熟語から、「幼い・未熟である」という意味がまず浮かびます。しかし私は、「稚」にある「あどけない・無邪気である・邪心がなくかわいらしい」という意味に着目しています。人は誰しも、純粋無垢の心でこの世に誕生してきます。「ありのままの素直さをできるだけそのまま伸ばしてあげたい」という願いが、「稚育」の核心です。江戸時代に盤珪禅師が遺された古歌「幼子の次第次第に知恵付きて仏に遠くなるぞ悲しき」の如く、もともと持って生まれた素直な資質が、年を重ねるごとに薄れていってしまうことは、とても残念でなりません。その素直さを伸ばしていく上で求められるのは、大人たちの「前から目線」です。それは、子どもを一人の人間として尊重する心の姿勢を意味しています。単に子どもだからという理由での「上から目線」は、素直さに傷をつけてしまいます。

次に、「得育」です。「得意分野を見つけ、それを伸ばしてあげること」です。そのためには、「褒めること」が必要不可欠です。「褒めること」の効用は誰もが知っているはずですが、実際にどれほど褒めることができているかというと、「?」の人が多いのではないでしょうか。例えば、「あなたのお子さまの良いところは何ですか?」と尋ねると、とっさに答えが返ってくるのはごく稀なことです。普段から子どもの長所や美点を意識しておくことは、とても大事な心構えであると思います。また、「褒めると、調子に乗ってしまうのでは?」と心配される方もあるようです。しかし、私はあえて「幼児期にその心配はご無用!」と断言します。口先の中途半端な褒め方ならば、かえって逆効果になることもありますが、心底からの賞賛は、子どもたちの「自己肯定感」を着実に育ててくれます。気を付けなければならないのは、時として口にしがちな「うちの子はほんとダメなんだから~」の言葉です。いくら謙遜や冗談のつもりだとしても、子どもにそれは通じません。最も信頼する大人からのダメ出しは、トラウマとなって将来にわたり子どもを苦しめてしまうことになりかねません。

第三の「耐育」、「忍耐」の「耐」ですね。「耐えることを身に付けることは、生き方を大きく左右する」と言っても過言ではありません。お釈迦さまは、我々が日常生活を過ごす世間のことを、「娑婆(しゃば)」と呼んでいます。娑婆とは「サハー」の音写であり、「サハー」とは「忍土」、つまり、「この世は忍耐することが当たり前の世界なのだ」ということを意味しています。これは、「現実世界が苦しみでいっぱいである」ということではなく、「忍耐が当たり前という心構えこそが、日々を充実して過ごす秘訣である」と、教えてくださっているのです。幼稚園も、他人同士が一緒に生活する一つの社会である以上、決まりごとを守り、我慢しなければならないことは数多くあります。幼児期に「忍耐」を身体に染み込ませておくことの意義は、計り知れないものがあります。「耐育」に欠かすことができないのは、「待つこと」ですね。大人の性急な態度は、子どもたちの「耐える力」「我慢する心」の成長を阻害してしまいます。

第四は、「触育」です。「子どもらはギュッとタッチで前を向く」、これは私(二代目求道)の川柳ですが、毎朝園の正面玄関で繰り広げられる親子の微笑ましい光景が、この拙句のモチーフとなっています。スキンシップの重要性は、今更言うまでもありません。子どもの「安全基地」は、大人の温もりによって成立するのですから。子どもとのスキンシップは、決して形ではありません。その行為の奥に、大人の祈り心があるかどうかが問われます。子どもたちは、大人が真剣かどうかを、しっかりと嗅ぎ分けています。

第五の「目育」です。目と目を合わせることは、人間関係づくりの(かなめ)と言っていいでしょう。 私は毎朝玄関で、子どもたちの目を見て、しっかりあいさつをするよう心がけています。私と目を合わせてくれる子は大勢いますが、中には、私に目もくれず、あいさつだけで通り過ぎようとする子もいます。はじめの頃は、「目を見てね」と声かけをしていたのですが、あるときハッと気付きました。子どもたちに「~させよう」としている自分がいたことを。良き習慣をつけてもらうためには、「~すべき」という枠組みで相手を変えようとするのではなく、子どもたちが素直に実践できるような声かけを、私自身がしなくてはならない、と意識を切り替えました。「目を見せてください」とお願いするようにしたのです。すると子ども たちは、私の願いに素直に応じてくれます。1時間余りの朝の挨拶は、「900の瞳」とのアイコンタクトであっという間に時が過ぎていきます。些細な毎日の積み重ねが、目力(めぢから)を具えた「意志ある人間」を育成することにつながるならば、それは園長冥利に尽きる、と言えましょう。

語呂合わせ、いや天の啓示(?)から始まった実践的保育論(もう一つの「五育」)は、子育てにも通じるものと確信しています。よろしければ、この新案無特許の処方箋を、ぜひご家庭でもお試しください。いつも申し上げるように、副作用は全くありません。子どもたちのためばかりでなく、服用する大人をも元気にしてくれます。もちろん、お代は要りません。

松森憲二拝

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