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園長の「給田だより」(2018年9月号)

2018/09/18 8:41:28

私の 『夏休みを振り返って』 」  父の訓(おし)えに生きる!

今年の夏休みは、生涯忘れられない夏休みになりました。前号の「親父(おやじ)のDNA!」に登場した愛媛県松山市在住の父が、8月10日、満89歳で永眠したからです(行年90歳)。今年5月に胃癌のステージ4の診断を受けて以降、本人の「生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)」を第一とし、平成26年1月からお世話になったサ高住(こうじゅう)(サービス付き高齢者向け住宅)での「在宅医療」を選択、約3か月が経過しているときでした。

病床の父を見舞うため、長男の仕事の都合に合わせ、8月6日に帰省する計画を立てました。6日の朝、松山便のある成田空港に着くと、予期せぬ事が…。何と、機材繰(ぐ)りのための欠航。「LCC(格安航空会社)にはありがち」という長男の弁を耳にしながら、「東京駅からの新幹線利用」がすぐ思い浮かびました。と同時に、7月上旬の西日本豪雨のため、四国のJRはまだ復旧していないことを知っていましたので、リスクの大きさも脳裏をかすめました。長男との熟議後、私が下した結論は、「成田―松山間トライアスロン計画(?)」です。振替搭乗で関西空港までは行けるので、まず飛行機で関空(私を含め、家族全員が関空初体験)へ。関空からは、JRで新大阪を経て新幹線で岡山へ。岡山からはレンタカーで瀬戸大橋を渡り松山まで行きレンタカーを乗り捨てる、という、非常時ならではの“大冒険ルート”です。思わぬ出費と時間がかかることは覚悟の上。じぃじの心中には「3歳の孫娘に、いろいろな体験をさせてやれる絶好のチャンス」との思いがありました。(1歳の男の子の記憶に残ることは…?)

当初の予定だと、6日の昼過ぎに父を見舞えたのですが、松山到着が夜遅くになったため、父に会いに行ったのは7日の朝でした。5月以降、何度か父を訪ねる度に、病状の変化は目に見えていました。その日も、意識はしっかりしていましたが、残念ながら、父の言葉を直接耳にすることはできませんでした。施設の責任者から、突然渡された封筒。その中には、父が三日ほど前に看護師に伝えたという、遺言めいた内容のメモ書きが。そこには、父なりの覚悟が滲(にじ)んでおり、私はいよいよ“その日”の到来の近いことを悟りました。

8日の朝、一足先に上京する長男家族を松山空港で見送りました。私たち夫婦は、テレビでよく見る“田舎のじぃじ・ばぁば気分”を、しばしの間味わいました。実家の片付けで10日まで残留組の私たちは、その日の早朝、電話の音に目を覚ましました。施設の責任者から、「博さま(父の名)の血圧が下がってきています…」と。空港に向かうことを取り止め、急ぎ父の枕元へ。父の耳はよく聞こえていましたので、私と家内は多くの声を掛けました。言葉による応答はないものの、私たちの話を聞きながら、父は繰り返し何度も瞳を潤(うる)ませていました。父をお世話くださっている多くのスタッフの皆さんも、入れ替わり立ち替わり見舞ってくれました。夕方には酸素濃度も次第に低くなり始め、鼻からの吸入が口からに替わり、20時前、ついに息をしなくなりました。実際の痛みや苦しみを知る由もありませんが、もしかしたら我慢していたのかもしれません。しかし、少なくとも見た目には、特段の痛みや苦しみを訴えることもなく、「入眠」と表現したいほどの穏やかな最期(さいご)でした。医師の死亡診断を受けたのが、21時15分。父が主演する舞台の終幕を、私は朝からずっと、最前列で見守っていたことになります。「もう二度と会えない…」と思うと、もちろん「寂寞(せきばく)」の念は募ります。しかしその一方で、「感謝」の思いを禁ずることはできませんでした。進学のため15歳10か月で親元を離れてから、こんなに長く父の傍にいたことがあっただろうか、と思うほどの「惜別(せきべつ)の時間」が与えられたのですから。

母が逝(ゆ)き 父が後追う 睦(むつ)まじさ(二代目求道)

父「しばらく、どこに行っとったんかと思ったら、ここにおったんか」

母「ほうよ。ちょっと先に来て、待っとったんよ」

久々に、そんな会話が聞こえてきそうです。そし

て、孫にあたる息子たちの心にも深く刻まれてい

る、「持つべきものは友だち」という父の訓(おし)え。“友

だち”の中には、家族はもちろん、園児・保護者・

職場の仲間、さらにはたくさんの貴いご縁も含み、

「出会いを大切に!」という趣旨であるという私

の解釈に、父は“オッケーサイン”で応えてくれ

るはずです。「それでいいのだ!」と。

松森憲二拝

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