トピックス

園長の「給田だより」(2018年10月号)

2018/10/02 9:17:59

『言葉遣い』 が心を養う! 」  ありがとう、通算70号!

9月7日、杉並区の立正佼成会大聖堂では、学校法人佼成学園の64周年記念式典が行われ、男女両校の中高生に対し、学園長である庭野日鑛先生が「諭告」を述べられました。例年とは傾向の違った(と、私は感じたのですが…)お話に、私の背筋はピンと伸びてしまいました。学園長先生は、「人間にとって一番大切な時期は、純真で真っ白な幼児期である」、「人間教育の基礎は家庭教育にある」という趣旨のお話をされたのです。いつもの創立記念日ならば、中高生の「今に必要な話」をなさるのですが、今年は、とっくに幼児期を過ぎた人たちに、「幼児期こそが大切」、「学校教育の前の家庭教育が大切」という話なのですから、正直「?」と思ってしまいました。ですが、すぐに気がつきました。学園長先生は、当面のこともさることながら、将来の社会を見据え、「皆さんが大人になったら、家庭教育で立派な人間を育ててください」ということをおっしゃっていたのです。さまざまな課題を抱える現代社会、とりわけ幼児教育への関心が高まっている昨今であるからこそ、「今の年代のうちに、家庭教育の重要性をしっかり認識しておいてほしい」という学園長先生の深いお気持ちに、幼児教育の現場にいる者として、さらに身の引き締まる思いがいたしました。

 唐突ですが、ここで漢字クイズです。「下の設問の(イ)(ロ)の中に、“カガミ”と読む漢字を入れてください。ただし、同じ文字を入れることはできません。」設問:「子は親の(イ)・親は子の(ロ)」

~Thinking Time~

正解は、「子は親の鏡・親は子の」です。私はこのフレーズを、「家庭教育の大原則」とし、自分自身の指針にもしています。「子は親の鏡」とは、「子どもの姿は、親の姿(ものの考え方や言動)をそのままに映し出している、いやむしろ、映し出してくれている。親は、子どもの姿を鏡として、親自身のあり方を振り返る(反省する)ことが大切である」という教えです。よく、「子どもに学ぶ」というフレーズを目にし耳にしますが、まさにこのことでしょう。そして、「親は子の鑑」とは、「子どもを育てる上で、親自身が子どもの手本にならなければならない」という教えです。

家庭教育の中心課題の一つが、「生活習慣」だと思います。その中でも私が最も重視しているのが「言葉遣い」です。なぜならば、「身体を作っていくのは食事、心(精神)を作っていくのは言葉」だからです。子どもの言葉遣いの良し悪しがその子の人生を左右し、良い言葉遣いができるかできないかで幸・不幸が決まっていくとすれば、親は無関心ではいられないはずです。

子どもにとって、親、特に母親は、人生の最初に出会う言葉の教師、しかも専属の…。子どもは生まれたときから、いや厳密に言えば胎内にいるときから、母親が何気なく発した(実は、感情の伴った)言葉を耳にし、その子の「辞書」に蓄えていきます。「こんなときには、こんな気持ちで、こんな言葉を遣えばいいんだ」という具合に。そして子どもは、さまざまな場面に応じて、蓄積したボキャブラリー(語彙(ごい))の中から、これでいいと思う言葉を選択しながら発信しているのです。先生である親から教えてもらったように…。もちろん、言語能力の発達には段階があるのですから、言葉になっているかどうかは別問題です。たとえどんなに拙い表現であっても、確実に親の真似をし、一所懸命表現しているのです。

容姿などに関しては、人からの指摘を待つまでもなく「私に似ている、私にそっくり」と素直に受け入れられることでしょう。しかし、こと「言葉遣い」においてはいかがでしょうか。例えば、子どもが人前などで、思いもよらぬ汚い言葉や不用意・不謹慎な言葉を発したとき、はっとして赤面してしまうことがありませんか。「何て口の利き方をしているの!」「そんな口の利き方、どこで覚えてきたの!」とショックに思ったり、怒りが湧いてくることは、一度や二度ではないはずです。そんなとき、つい「ダメ!」「やめなさい!」ときつく叱ってしまいがちです。叱らないまでも、心の中で、子どもを強く責めてしまいます。子どもを叱り責めて改まるのならば、何の苦労もありません。親自身の言葉遣いを反省してみると、誰しもが後悔することに思い当たります。「覆水盆に返らず」。だからと言って、決して悲嘆にくれることはありません。「家庭教育に手遅れはない。気がついたときが出発点」なのですから。こぼれた水をお盆に戻すことができないとしたら、新しい水を注いでいけばいいのです。新しい水とは、「正しい言葉遣い」です。自らの反省を踏まえ、正しい言葉遣いを教えていけばいいのです。決して、放任であってはなりません。

そこで大事なのが、その伝え方です。私は、仏さまの教えの中で最もポピュラーな「和顔(わげん)愛語(あいご)」を提言いたします。「和顔愛語」とは、「和やかな笑顔と思いやりの話し方で人に接すること」です。〈子どもの目を見て〉〈感情的にならず〉〈穏やかに〉〈短く伝える〉ことが肝要です。上から目線で言えば、年齢によってはかえって反発を招くばかり。反発というのは、見方を変えれば、子どもの成長なのですが、ついつい「何て生意気な!」と感じてしまい、かえって有害無益になってしまいます。ですから、あくまでも、子どもの立場や気持ちを尊重しながら、「一人前扱い」していくことが求められます。このことは、3歳児にさえも言えることで、常々心しなければなりません。

子どもの手本になることは、ある意味プレッシャーかもしれません。しかしそれは、子を持つ親としての当然の責任であり、務めでもあります。その責任や務めが、「親としての誇り」に昇華したとき、子育ては親自身の喜びとなり、生きがいとなるのです。ある朝、NHKの『あさイチ』で松本幸四郎が紹介した「よく言った それをお前が やってくれ」(升田良之介作)の川柳は、「親は背中(実践)で導くことが大切」ということを示唆しています。今こそ求められているのは、「親は教育者である」という自覚です。その自覚は、「子どもに恥ずかしくない日々を過ごす」という覚悟と、表裏一体のものと言えましょう。「子は親の鏡・親は子の鑑」が、親自身の骨身にしみたとき、親子関係は大きく変化し、喜びにあふれた子育てが展開していくに違いありません。            

ところで、めったにお目にかかることのない方から、「佼成学園幼稚園のホームページで、『給田だより』を読ませてもらっています」とのコメントをいただくことがあります。その方が「よもやこの人」と思う方であればあるほど、その驚きと喜びはとても大きく、そんなときには、自他共に許すネット難民の私も、ネット社会の恩恵に浴しているという現実に、改めて目を開かされます。

『給田だより』は、2012年(平成24年)4月に園長に就任して以来、原則として月に1号ずつ書き続けているエッセイです。「保護者の皆さまとの“心の架け橋”に…」、そして「多少なりとも保護者の皆さまのお役に立てたら…」との願いを込めて、毎号キーボードに向かい悪戦苦闘しています。①園の行事やカリキュラムの紹介、②園運営に関する方針や考え方、③幼児教育を含む教育全般に関する学び、④時事問題への感想・所見、⑤園児たちとのエピソード、⑥プライベートな出来事、⑦川柳・ダジャレ(私は「類語学研究」と呼んでいます)等、その内容は多岐にわたり、要は「何でもあり」なのです。とは言え、毎号最終稿ができあがるまで、どんな形で保護者の皆さまにお届けできるか、いつもハラハラドキドキです。

つい最近、この世界で誰一人気づかない“あること”に気づいてしまいました(少しオーバー?)。それは、何と、『給田だより』10月号が(臨時号を除いて)通算70号目ということです。慣例として7・8月は合併号ですから、一年度分は11号。2018年3月までの6年間(11×6)で66号。ですから本来ならば、今年の7・8月で70号目になるはずだったのですが、諸般の事情で4月と5月を休んでしまったため、2号分遅れて、2018年10月号が70号目になったのです。70という数字を年齢に置き換えれば、「人生七十古来(こらい)稀(まれ)なり」の「古稀」です。誰も言ってくれないので、自分で言ってしまいます。「よく頑張りました!」。(私は、男の「自画自賛」を「自画じぃさん」と呼んでいます。ワカルカナ~?)読んでくださる保護者の皆さまがいてくださるからこその70号、心から感謝申し上げます。

もし、関心を持っていただけるようでしたら、ホームページ「園長の『給田だより』」をクリックして、バックナンバーにもお目通しください。そして、ぜひご意見・ご感想をお寄せください。時効は設けません。今後の『給田だより』の充実、そして私自身の成長の糧(かて)といたします。私の取り柄と言えば、“オープンマインド”(これって、「自画じぃさん」第2弾!?)。聴く耳だけは持ち続けたい、と願っておりますので…。  

松森憲二拝

« 緊急情報 | メイン | 運動会リハーサル »