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園長の「給田だより」(2018年12月号)

2018/12/03 11:19:02

「平成最後の“老年の主張”!」  ~“子は鎹(かすがい)”は本当か?~

「子育て支援」の一助になれば、との思いで「給田だより」に向き合うたびに、私の脳裏をかすめるのは、「書きたいことを書かせてもらってはいるけれど、果たして保護者の皆さまのお役に立っているのだろうか?」ということです。「読ませてもらっています」「楽しみにしています」との声をいただくことはあっても、具体的に「ここがこんなに役に立った」ということを耳にする機会は、残念ながらあまりありません。よって、私の心中には二つの心が同居することになるのです。それは、「何とかお役に立てるものなら、という期待」と、自己満足の空砲(くうほう)、つまり「独(ひと)り善(よ)がりになっているのではないかと、いう不安」です。そんな思いが、「給田だより」に、「保護者の皆さまにモニターになっていただき、ご感想やご批評をいただきたい」を書かせています。「手応えを実感したい」という思いがあるのはもちろんのことですが、プラスであれマイナスであれ、その反応がバネになって、さらに自分自身が磨かれることを、35年間の教育者生活が、私に教えてくれています。

そんな折、10月中旬のある日、園長室PCに、ある年長女児のお母さまから、「夏休みを振り返って、その後のご報告」というメールがありました。お礼メールを返信したところ、再びメールが届き、そこには、次のことが書かれてありました。

園長先生の「給田だより」、楽しく読ませていただいております。実を言うと、ノートに貼り付けていつでも読み返せるようにしています。行き詰まった時や子育てに迷いがあるとき、特に見直しています。その都度新たに心に響く言葉が書かれており、自分を見直すきっかけをいただいています。

中でもいつも読み返すページは、「新入園児保護者説明会特別号」の「お母さま方へのメッセージ(五つのないで)」です。子育ての原点であると思っています。読むたびにちゃんと実践できているか、自分に問いかけています。

また、ハッとさせられることも多く、一番驚いたのを今でも覚えているのは、「子どもは自分のことを半人前だとは思っていないということ」(2017年9月号)。初めて読んだ時の衝撃。それはもう、胸にストンと落ちる感覚で、大人だから子どもだからと、つい上から見下ろしている自分に気づかされ、考えされました。

また、「給田だより」を夫婦で共有し、子育てについて話す良いきっかけにさせていただいています。園長先生が書かれている通り、私たち家族にとって「給田だより」は、心の処方箋となっております。

次号も楽しみにしています。

冒頭に述べた思いがあるだけに、私の心は、有り難さに満たされました。そして、そのご縁によって、さらにいくつか考えることがありました。

一つ目は、文中の「お母さま方へのメッセージ(五つのないで)」についてです。言うまでもなく、その五つとは、(1)まわりと比べ“ないで”(2)できたことを見逃さ“ないで”(3)一人っきりで悩ま“ないで”(4)自分で自分を責め“ないで”(5)あの日の感激を忘れ“ないで”、です。

このメッセージは、園長就任一年目の「入園説明会」で、初めてお話ししたと記憶しています。言わば、園長としての「初心」です。それを「子育ての原点」と受け止めてくださっているのですから、嬉しくないはずはありません。思えば、五つの項目に、何一つ目新しいものはありません。しかし、目の前のお母さま方の心を少しでも安んじたい気持ちで五つに整理したこと、そして「五つの“ないで”」というネーミングに、いささかのオリジナリティーを感じています。そのメッセージの根底にあるのは、日頃ご苦労されているお母さま方に、「子育ては楽しい!」と感じていただきたい、という願いです。お母さまが前を向いた分だけ、子どもは前を向きます。それは「真理」と言っても過言ではなく、「五つの“ないで”」への信念は、これからも決して揺るぐことはありません。

二つ目は、子どもに対する親の眼差(まなざ)しのあり方についてです。メールにもある通り、子どもたちは、自身を決して「半人前」とは考えておらず、それぞれの年齢なりに「一人前」として見ています。つまり、3歳、4歳、5歳としての「一人前」を生きているのです。表現が稚拙(ちせつ)であることをいいことに、その気持ちを尊重することなく、「まだ幼児だから…」「何もわからないのだから…」と軽んじるのは、親の傲慢(ごうまん)であり、人間としての尊厳(そんげん)を無視する態度と言っていいでしょう。人としての基礎的感情がもう立派に育っている子どもたちは、日々、「子どもの社会」を生き切っています。そのこと自体を理解することなしに、大人の一方的な見方や考え方を押し付けることは、厳に慎まなければなりません。「子育て」が上手くいくかいかないかは、親と子のコミュニケーションの良(よ)し悪(あ)しにかかっているのです。親子間の人間関係が良好であってこそ、「子育て」は成り立っていきます。そのためには、他の人間関係と同様に、親子関係も「平等」、つまり、互いの立場を尊重し合う関係でなければなりません。親の立場への理解を子どもに要求する前に、まずは、大人である親が、“チャイルドファースト”の立場に立つべきでしょう。子どもがいる間は、子どもの年齢にかかわらず、親の「子育て」は続いていきます。子どもが幼い今の時期だからこそ、親はしっかりとその姿勢を身に付け、今後予想される複雑な親子関係の到来に備えなければなりません。何年か先には、親子がそれぞれの立場で必ず乗り越えなければならない、正念場としての「思春期」が待ち受けています。まさに、備えあれば憂いなし、なのです。

三つ目は、子育てが夫婦間の共通の話題となり、子育てを介して夫婦間のコミュニケーションが図られているという点についてです。この件に関しては、実はこんな背景がありました。

メールを受け取った前日の帰宅途中、たまたま自宅最寄り駅の売店で目に留まったのが雑誌『アエラ』(2018.10.29号)。その表紙の“子育ての「正解」圧力がつらい”という大特集のタイトルは、私に「買わなきゃ損だよ~」と訴えかけていました(?)。「子育て」の三文字に過敏になっている私は、「それは、反則だよ~」と意味不明のことをつぶやき、衝動買い。「職業病?」、いや「職業意識!」と切り替えて、自分を納得させました。そこに書かれていたのが「子育ての方針をじっくり話す習慣が夫婦関係を安定させ、『家庭内の心理的安全性を保つ』」という記述。前日、その箇所に赤傍線を引いたばかり。メールに同じ趣旨のことが書かれていたことに驚きました。(私自身、事情含みのシングルペアレントを、決して否定するものではありません。念のため。)

それと同時に、一旦は作成したものの、実際に日の目を見ることのなかった(いわゆる「お蔵入り」した)、ある“幻の「給田だより」”(2013年4月号予定稿)を思い出しました。それは、手元のUSBメモリーに、5年半以上静かに眠ったままの原稿です。いただいたメールと『アエラ』の記事に触発された私は、今月の「給田だより」に、その原稿を引っ張り出したい気持ちになりました。当時のタイトルは、「“子は鎹(かすがい)”は本当か?~絆は「ある」ものではなく「つくる」もの~」でした。以下は、それをモチーフとしながらも、今回、時勢に合わせて書き直したものです。

「子は鎹(かすがい)」は、有名な諺(ことわざ)ですので、あえて注釈は要(い)らない気もします。しかし、私自身への確認の意味で、『広辞苑』を繙(ひもと)いてみると、「子に対する愛情がかすがいになって、夫婦の間が融和され、夫婦の縁がつなぎ保たれる」とあります。何も目くじらを立てることもないのですが、人並み以上に言葉に“こだわり”のある私は、何となく「?」をつけたくなります。素直じゃないと、お叱りを受けるかもしれませんね。恐らく、昨今の親子の痛ましい事件が影響しているのだと思います。正しくは、「子育ては鎹」なのではないか、つまり「夫婦の“育てる”という意識と行為が伴ってこそ、子どもは鎹になる」というのが、新元号初年度の5月に、晴れて(?)前期高齢者の仲間入りをする「老年の主張」です。子どもは、間違いなく夫婦にとってかけがえのない存在です。しかし、いるだけで鎹になるかというと、必ずしもそうではない。子どもが鎹になるためには、夫婦が同じ方向を見て、ともに子育てをすることが必要なのです。絆は、そこに「あるもの」ではなく、ともに「つくりあげていくもの」なのですから…。

最後に、「給田だより」に込めた決意を、川柳に託して。「役に立つ 給田だより 育てたい」。お父さま方からも、甘辛(あまから)取り混ぜてのコメントを期待しております。お受けする園長室PCのメルアドは、k-matumori@kosei.ac.jpです。

松森憲二拝

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