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園長の「給田だより」(2019年2月号)

2019/02/07 15:34:41

「 Another(アナザー) Sun(サン) (もう一つの太陽) ! 」   ~佼成パパの底力、ここにあり!~

「2月号の『給田だより』には、佼成パパに登場してもらおう!」と決めていました。原稿はほぼできあがりながらも、今一歩まとめ切れない日々を過ごしていた2月2日の帰宅途中、千歳烏山駅西口の階段を降りているときに、年中男児A君の父子(おやこ)にばったり出会いました。

A君「園長先生、どこ行くの?」私「お家(うち)に帰るんだよ」

A君「園長先生のお家はどこ?」私「“狭山”って言って、新宿から1時間くらい電車に乗るんだよ」

A君「1時間って?」私「!?」

 「1時間」をどう伝えたらいいか、一瞬戸惑ってしまいました。すると、即座にお父さまが「ドラえもん(のDVD)二つ分だよ!遠いんだよ」と答えてくださいました。納得気のA君とタッチで「さようなら」をして、私は改札口に。階段の上からは、再びA君の元気な「さようなら」の声。見上げて私も「さようなら」を言い、手を振って別れました。新宿行きの電車の中で私は、お父さまの“子ども目線”の名回答に「なるほど、さすが」と感心するとともに、そこに、A君父子の日常的な触れ合いの様子を垣間見ることのできた喜びを感じていました。そして、「そうだ!このエピソードから書き始めよう」と思ったのです。A君、3回も続けて質問してくれ、どうもありがとう!

昨年、『給田だより』12月号の結びで、「お父さま方からのお声をいただきたい」と呼びかけたところ、すぐに年長男児B君のお父さまからのメールが届きました。私は共感をもって読ませていただきながら、佼成パパの底力を知ることになります。ご承諾のもと、以下に転載いたします。

原点は、子どもは宝であること、その宝は私たちだけのものではく、地球、日本、地域の宝を、たまたま、私たちがお預かりしていると、大げさですが、真剣にそう考えております。言うまでもなく、子どもは、親を選べません。私たちは、子ども望んで、奇跡的に授かったと考えております。最近の児童虐待等の報道に心を痛めておりますが、奇跡の宝ものを、どうしてそんなに軽んじて良いものか、そうした報道に触れる度に、心重く考えてしまいます。もちろん、私も仕事のストレス等、色々なプレッシャーはあります。ただ、それを子どもや家庭に持ち込んでいいはずがありません。子どもはそうした親の気持ちに敏感です。私はこの10年、子どもに接する際には、いつも心を平静に、明るく前向きな言動を心がけてきました。そうした言動の積み重ねで、ふと気づくと、自分自身の成長を感じることがあります。子どもの日々の成長を感じ、また、自分の成長ができれば、こんな幸せなことはありません。

そうは言っても、これからの世の中は、日本の経済も右肩上がりではありません。世界には、紛争、貧困や災害など、困難もあります。子どもたちが大きくなるにつれて、そうした現実にも直面します。そんな現実に対して、親として、時には困難を乗り越える術を教える過程で、厳しさも見せなければならないと考えております。今後も、親として、人間として、成長を続けなければなりません。子どもの成長を前に、親が停滞していては、子どもの言動にとやかく言う資格はないと思います。子どもは親の背中を見て育つものだと、私も父親を見て育ってきたつもりです。父親は私が18歳のときに亡くなりましたが、今でも、とても良い父親だったと思っております。

随所にちりばめられている卓見に、私は大きな勇気をいただきました。「ありがとうございます」のメールをお返ししたのですが、つい私の突っ込み癖(?)が頭をもたげ、「ご自身の成長をどんなふうに捉えていらっしゃるのか、より具体的に教えていただけるとありがたいのですが…」と書き添えてしまいました。ところが、間もなく速攻の返信メールが。びっくりしてしまいました。

 自身の成長についてですが、長女が生まれたときは、心身ともに余裕がなかったと言いますか、どもにあれをしたい、これをしたい、という感じで、子育てを一方的に考えていたように思います。家内は違ったと思いますが…。私は、心が舞いあがってしまっていたように思います。毎週の休みのたびに、美術館、水族館、動物園、遊園地…、どこでも連れていきました。また、読み聞かせがいいと、手当たり次第、子どもが喜びそうな絵本を毎日のように購入して、起きている間は読み聞かせ、抱っこの日々でした。当然、夜泣きもありましたので、家内ともども睡眠不足の毎日、腰痛、肩痛…、それが、ストレスにつながり、仕事に集中できず、成果も出せない日々、焦りも募っておりました。これでは駄目だと思ったのでしょうか?いつかは定かではありませんが、長男が生まれてからだと思いますが、子どもの考えていること、喜ぶこと、嫌なこと、欲することが、何となくこうではないか?と分かるようになってきました。まだ、完全とは言えないですが…。また、二人目ということもあるのかもしれませんが、私の心情として、子どもを理解しようと思うならば、親である自分を客観視しようと心がけるようになりました。今朝もそうでしたが、子どもは常に、私の起きた時間、うちでは、今、万歩計がブームなのですが、昨日歩いた歩数などを聞いてくるのです。要は、子どもたちは、親の朝~日中からの行動を知りたがっている。ならば、私も子どもたちの行動を知ろうと欲します。お互いを知る日々の積み重ねで、私も子どもたちを知る、子どもたちも親を知っていく、今、そんな日々を送っております。前段の自分を客観視することは、これは、なかなか難しいのですが、自分の言動が子どもたちに、どう把握されるのか?どのように見られるのか?そんな思いから、心がけていることではあります。とりとめのない話になり恐縮なのですが、成長している定義というのは、私なりに、今のところ、小学校、幼稚園生活をのびのび過ごしているかなと感じており、私もそれなりに、心身の余裕を感じるようになっただけのことであるのかもしれません。個人的には、人間の成長は死ぬまでですので、従って、未完成の状態ではあります。

年長女児Cちゃんのお父さまは、表現活動参観の際、子どもたちの発表後、「感想」のマイクを向けられてしまいました(?)。限られた時間の中でのコメントは簡明なものでしたが、多くの、深い“何か”が伝わってきました。後日、お母さまを通じて、「あの日のコメントの内容を、もう少し詳しく教えてください」と原稿依頼。ご快諾後、お寄せくださったのが、以下の文章です。

長男のときから8年間お世話になっている幼稚園、最初に思い返すのは長男が年少のときの親子遠足。お腹に子どもがいる家内に代わって私が付き添った。母親がいないことで寂しい思いをさせたくはないと息巻いて。お昼どきにお菓子を配っている他の子を見て真似させる。息子は声をかけるタイミングがわからずにうまく渡せない。やきもきするが、上手にフォローすることができない。遠足後も皆で一緒に帰りたいという長男のために見知らぬグループに必死に付いていったが、仲良さそうな皆さんの邪魔になっているだけ。自分一人の力だけでは息子の望みを叶えてあげられない歯痒さを初めて学ばせてもらうことになった。もともと愛想の悪い自分だったが、親子体操や次男の親子プールに参加するようになってからは、子どもたちにつられて笑えるようになる。長男の進級に伴って、親も子も徐々に知り合いが増えていく。次男が入園する頃には、長男繋がりの弟さんや妹さんということで、最初から顔見知りの子どもたちも少なくない。知っている子が増えてくると運動会の応援や演劇観覧も一層熱が入る。最近では小学校のミニバスケットボールクラブをコーチとしてお手伝いするようにもなった。人見知りで子どもも苦手だった自分の変貌に我ながら驚く。

思い返せば、私の母親も地域社会への貢献を重視する人だったが、その理由を今更ながら理解することが出来た。コミュニティでの繋がりを大事にして助け合っていくことが子どもの幸せ、ひいては自分の幸せに繋がっていく。賢明な皆様にとっては当たり前のこともかもしれないが、自分には子どもたちとの体験がなければ知り得なかったことだ。そういう機会を繰り返し与えてくれた幼稚園には、感謝してもしきれない。

私は昨年、某所で行われた3回シリーズの「パパの家庭教育セミナー」で講師を務め、“Another(アナザー) Sun(サン) ”(父親よ、“もう一つの太陽”になれ!)」とのメッセージを発信いたしました。言うまでもなく、一つの太陽は“母親”。その“母親”との役割分担はあるにせよ、「子育ては100%自分の責任」という“父親”の自覚をもってほしい、との願いを込めました。佼成パパの皆さんは、“Another Sun ”として輝いていらっしゃることを嬉しく思います。世の奥さま方が、半分冗談半分本気(?)でつぶやいている「うちの旦那は、全くもう一人の息子なんだから…」の“Another Son ”とは、似て非なるものです。蛇足でしたね。

松森憲二拝

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