トピックス

給田だより

園長の「給田だより」(2013年11月号)

2013/11/01 9:00:00

「特集!これが佼成の運動会だ!」
  ~ “世田谷名物”を解剖する ~

 「今年の運動会、雨が降らなくて良かったですね!」多くの方々からそんな言葉をかけていただきました。昨年は、予報はずれの雨にたたられ、前代未聞の2日間にわたる運動会となってしまった、という事情があったからのことでしょう。

 昨年のことは、ことさら恨みがましく思っているわけではなく、私の中ではむしろ有り難い思いこそが残っています。昨年の閉会式後、「孫の運動会を、二度も楽しませていただきました」や「思い出に残る運動会になりましたね」などのお声を、新米園長は心温まる思いで聴かせていただいたからです。その感激は、いつでも蘇ってきます。にもかかわらず、です。つい私の口から出てしまったのは、「ハイッ、お陰さまで。昨年の倍返しです!」というものでした。無意識に、いや意識して流行に乗り遅れまいとの思いが、きっと働いたのでしょう。これも男の悲しい性(さが)でしょうか?

 今年の予報は、「降水確率0%」。運動会日和を絵に描いたような、雲一つない快晴に恵まれました。感謝の気持ちで一杯です。

 以下の6つの拙句は、運動会直後に詠んだもの。しばしの間、今年の運動会の振り返りに、どうかお付き合いください。

 「可愛さに 笑顔こぼれる 親子いも

 年少組の親子フォークダンスです。それぞれの親子の姿は、いかにも微笑ましく、各家庭での情愛そのものを垣間見ることができ、観客を思わず笑顔にしてくれる温かいひとときでした。   

 「玉入れの 勝利に歓喜 はじけ跳ぶ

 年中組の玉入れは、担任を含めて各クラスの子どもたちが熱心に練習に励んできたことをずっと観察してきましたので、結果については興味津々。どのクラスも頑張ってきただけに、玉のカウントを聴きながら、私の脳裏にあったのは、全クラスに勝利を!との、叶わぬ思いでした。

 「真剣さ みなぎるリレーに 涙雨

   &涙する 親の思いに もらい泣き

 年長組については、どのプログラムも見事な出来映えでした。その中でも圧巻だったのは、やはり園全体が興奮のるつぼと化した男女のリレーではないでしょうか。ゴールの瞬間の大歓喜、最下位のアンカーの懸命な走りへの大声援。閉会式の挨拶で、私は「降水率100%の涙雨」と述べましたが、決して偽りではないはずです。「よその子のリレーなのに、何でこんなに感動してしまうんだろう」という年中保護者の涙ながらのつぶやきを、私は決して聴き逃しはしませんでした。

 「今日までの 育った証(あかし)が 運動会

 今年の運動会のプログラムに、「1ヶ月を超える期間の練習の成果を発揮する最高の秋(とき)」という表現を用い、印刷に回しました。自分自身の浅はかな認識に気づくのは、直後のことでした。運動会は、決して1か月の練習の成果にとどまるものではないのです。子どもたちが生まれてからその日を迎えるまでの、成長の集大成なのです。昨年以来、私は佼成の運動会を、個人的に「給田オリンピック」と呼んでいます。私たちに感動を運んでくれるのは、子どもたち一人ひとりの『栄光の架橋♪』が、そこにあるからなんですね。

 「飛行機で じいじとばあば やってくる

 世田谷名物の佼成学園幼稚園の運動会は、名実ともに「家族みんなの運動会」です。これからも、家族の絆に貢献し、多くの方々に愛され続ける 運動会でありたい、と心から願っています。

 ところで、感動は、運動会当日にとどまりませんでした。年少組のY君。自分たちはメダルをもらったけれど、担任の先生にメダルがないのはかわいそう、ということで、運動会明けの日、何と、先生のためにメダルを作って登園してくれたそうです。(大拍手)優しいですね!嬉しいですね!

 最後に、告知です。11月15日、後援会主催で、映画『じんじん』の上映会が行われます。昨年のの同日は、絵本の読み聞かせに目覚めることができた、私自身にとっての「絵本記念日」。丸1年後のその日に、絵本の読み聞かせをモチーフとした映画を本園で上映していただけるというご縁に、この上もない幸せを感じ、感謝しています。

 奇しくもその日は、本園を創立してくださった庭野日敬先生の107回目の誕生日です。幼児期の大切さをお説きくださった今は亡き師のご恩に、多少なりともお報いできたら、と念じています。

 新たな感動を、ぜひご一緒に!  

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2013年10月号)

2013/10/01 9:00:00

「スポーツの秋に寄せて」
  ~ そこには、感動があるから ~

 9月8日早朝、2020年のオリンピック・パラリンピックの開催都市が、TOKYOに決まりました。  私は不覚にも睡眠中にその瞬間を迎えてしまい、リアルタイムに歓喜を味わうことはできませんでした。その日は朝から、テレビ各局のニュースをはしごしたことは言うまでもありません。

 前回の東京大会(1964年)、小学4年生の私は、広島県三原市で、テレビにかじりついていました。

 49年経った今、幼稚園の園長として、国家一大事のニュースに触れることができたことは、まさに「神仏のみぞ知る」という予期せぬ出来事です。しかしながら、我が佼成の園児たちが7年後、「世紀の感動」を目の当たりにできる千載一遇の機会に恵まれたことは、この上もない喜びです。

 「2020 そのとき何歳? 夢描く」

 (2020年を迎えたその時には何歳になっているだろう?何をしているだろう?何ができるだろう?そんな人々の気持ちを表した、私の拙句です。)

 今回の招致決定が教示してくれたことの一つ目は、「プレゼンテーションの重要性」です。前回の失敗を糧に、今回の招致活動においては、周到なプレゼンテーション対策を行ったようです。日本人には不得手と言われる表現力を磨いたことが、招致成功への大きな要因だったということは、今後の教育のあり方に、一つの方向性を与えてくれています。園児たちの、「生活発表」「表現活動」等に、これからも関心を寄せていくつもりです。

 二つ目は、「お・も・て・な・し」です。今回、日本人ならではの心として、世界に向けて大きく発信されました。ディズニーリゾートの例を持ち出すまでもなく、(教育も含めた)広義のサービス産業において、見返りを求めないホスピタリティー精神は、大切なものとされています。市政改革を進めている林文子横浜市長の著書『共感する力』で、“共感”とともに強調されているのが“おもてなし精神”であり、また、『県庁おもてなし課』(有川浩著)も、先頃、映画化されました。「おもてなし」は、「今でしょ!」「じぇじぇ」「倍返し」らと、今年の流行語大賞を争うかもしれませんね。

 三つ目は、「チームジャパンの力」です。さまざまな立場の人が、ともに情報を共有しながら一つの目的に向かって歩むことの尊さと喜び。あの瞬間の現地及び日本国内での数々のガッツポーズは、まさに感動の極致だったと思います。

 ところで10月、スポーツの秋。〈イベント〉と〈アスリート〉に関する、身近な話題を二つ。

 まずは〈イベント〉。言うまでもなく、運動会です。園児たちは、現在、10月13日の運動会に向けて、可愛らしく、逞しく、そして頼もしく、   精一杯練習に取り組んでいます。昨年のロンドン五輪で多くの感動をもらった私は、頑張る園児たちにエールを送る意味で、佼成の運動会を「給田オリンピック」と呼ぶようになりました。今年の給田オリンピックの成功も、ひとえにチーム佼成(保護者と教職員)の結束力にかかっています。お力添えを、心よりお願いいたします。

 次は〈アスリート〉。来年度の世私幼大会の頂点(クイーン)を目指して日々活動している、本園後援会の唯一の活動団体である、佼成学園幼稚園ママさんバレーボール部です。ママさんバレーの魅力とは何でしょうか?今年度の大会を終えて、メンバーから寄せられた数々のコメントが、雄弁に物語ってくれています。一部ですが、4名の生の声をご紹介いたします。

「親になったらできないだろうな、と思っていた『自分を楽しむ』ことができました。」

「この年齢で、一つの目標に向かって皆で励まし合いながら努力していくことはとても貴重で素敵な体験です。子どもたちが応援してくれるのがとても嬉しいです。勝った時の喜びは格別です。」

「バレーボール初心者で始めました。新しいことにチャレンジするのはやっぱり勇気がいりました。でも、実際に体を動かして汗をかくことはとても気持ちがいいです!仲間あってのバレーボール。なかなかできない経験に喜びを感じています。」

「子どもを産んで、スポーツからだいぶ遠ざかっていましたが、バレー部に入り継続的に身体を動かすことで、心と身体がリフレッシュされました。良き仲間にも出会い、幼稚園生活がとても楽しいものとなっています。」 etc.

 スポーツの醍醐味、それは「感動」。記憶に残る2013年の秋を、さあご一緒に! 

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2013年9月号)

2013/09/01 9:00:00

「おてつだい」が教えてくれた自分自身
  ~私の『夏休みを振り返って』~

 7月の終業式で、私は子どもたちに、夏休みの約束として、「あいさつ・げんき・おてつだい」の実践を促しました。今月号では、私自身の「おてつだい」について、ご報告させていただきます。

 話は少し遡りますが、1学期の半ば以降、我が家(と言っても、私の両親は愛媛県松山市で二人暮らしをしております)では、立て続けに両親が病気を患うという事態を迎えました。84歳の父は、脳梗塞で左足の歩行が困難になり、現在は入院しながら、日に3回のリハビリに励んでおります。83歳の母は、胃癌の宣告を受けました。今後の生活の質(QOL)を考え合わせながら、補聴器を頼りに、毎日父の見舞いにせっせと通っております。

 もともと片付いている実家ではないものの、 二人の病気でさらに乱雑になっていることが考えられたため、今年の夏休みは、「実家の片付けと掃除!」と決め、8月10日の夜、家内とともに車で約880km離れた松山市を目指したのです。

 到着してみると、家の内外は、予想をはるかに上回る「ゴミ屋敷」(?)状態。唖然とする中、家内は衣類の片付けや玄関回りの清掃、私は各部屋のゴミの収集や整理整頓と大まかな分担をし、母からの抵抗をかわしながら、作業を進めました。 

 長い年月の積み重ねのことですから、数日間の「おてつだい」ですべてをカバーすることはできません。しかし、家内の献身的なサポートもあり、何とか形を整えて帰途につきました。(往復1760kmの超ロングドライブ。運転交替時の助手席では、常に高いびきを轟かせていましたが…。)

 ところで、今回の「おてつだい」は、図らずも父と母の歩んできた道、そして人となりに触れる機会となり、私にたくさんの気づきを与えてくれました。その中で最も特筆すべきは、「自分自身を改めて見つめ直すことができた」ということです。  

 父は、いつの頃からか、気になる新聞記事等の切り抜きを始めたようです。母からは、「スクラップブックにでもコツコツと貼っていけば、貴重な資料になるのに…」と言われ続けてきました。  残念ながら全く整理ができていないため、父には気の毒ですが、ほとんどがゴミ化しています。  

 何を隠そう私自身にも、似たようなところがあります。「これだ!」と思う記事やコラムなどを、一旦は切り抜くのですが、整理が後回しになってしまうため、折角の資料をそのまま眠らせてしまっています。

 母は、仕事一筋の人で、どちらかと言うと家事は得意ではありません。しかし、頭の中ではいつもさまざまなプランが廻っているタイプの人です。例えば、廃材のようなものでも、災害時に役立てるために「もったいない」と言ってはそれらを捨てることができず、結果的には…。

 これもまた、私にも同じ性向があり、いつか必ず何かの時のために役立つに違いないという考えから、私の身の回りには、たくさんの思い出の品(?)があります。貴重なものもあるには違いないのですが、結局は捨ててしまうことになるものを溜めこんでいるのも事実です。

 両親の足跡は、全くもって私自身の姿、と痛感しています。良きところは謙虚に学びつつも、悪癖と思われる点については、今回、二人の後ろ姿をとおして自覚できたことに感謝しています。 残された時間は、どれほどかわかりません。少しでも親孝行させてもらいたい、という心境です。

 ゴミの中からは、父の長年の趣味である「川柳」の下書きが、山ほど出てきました。父は、「求道(ぐどう)」と言う名で、多くの句を詠んできたようです。言葉の面白みを楽しむという嗜好も、父と私の共通点、いや、父からのDNAを私が受け継いでいるに違いありません。ゆくゆくは、「初代」のお許し(?)を得て、「二代目求道」を襲名したい、と考えています。そう決意した途端に浮かんできたのが、次の二句です。

 ゴミ屋敷 宝の山と 老母(はは)は言う

 片づける つもりが積もる ゴミの山

  (二代目求道作)

 大量のゴミへのビックリから始まった、今年の夏休みの「おてつだい」。家族の絆、血のつながりを強く感じさせてくれました。ほのぼのとした、有り難い気持ちでいっぱいです。

 ただのゴミの山に終わらせるのか、宝の山にしていくのか、それは、私の心がけ次第。

 さあ、スイッチ・オン!     

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2013年7・8月号)

2013/07/01 9:00:00

「ありがとう、佼成天使たち!」
  ~ 玄関は「第二の保育室」 ~

 まずは、嬉しいご報告です。

 6月号(5月20日発行)ご紹介したA君の「オハヨウゴザイマス」(口は確かにそのように動いているが、声が聞こえない)について、覚えていらっしゃいますか。6月号には、「A君の様子を見ていると、彼の声が私の耳に届く日も、もう間もなくのことと確信しています。その日が来るのを楽しみに、玄関で待ち続けたいと思います」と書いたのですが、ついに「おはようございます」の声となり、私の耳に届く日がやってきたのです。しかも、そんなに日が経つこともなく…。

 その経緯は、私の『三行日記』に、次のように記されています。21日「聞こえたような気がした」、22日「声が聞こえた。他の子はいないし…。確信となった」、23日「ちゃんと聴こえた」、24日「A君の声、確実に聴こえた」。

 漠然とした「間もなく」が、1週間も経たないうちに、日々の確実な変化(手応え)を経て、有り難い現実となりました。

 上に述べた事例は、玄関での子どもたちとのほんの一握りの出来事でありますが、玄関は私にとって、まるで「宝石箱」のような「第二の保育室」なのです。

 このような有り難い出会いは、決して朝に限ったことではありません。

 6月6日の降園時、お迎えのママを待つある年少の男児が、私にこう尋ねてくれました。

 「園長先生のお腹、どうやってふくらませているの?」

 「………」

 鋭い突っ込みに、いや、余りにも純粋無垢な質問に、私は、とっさに答えることができませんでした。未だに何と答えてよいかわからず、回答を探しているのですが、そのときの、ある種新鮮な感覚だけは、今も心に残っています。

 この原稿を書きながら、それは何なのだろう、と自分自身に問いかけるうちに、ふと心に浮かんだのが、「ありのまま」という言葉です。彼の質問は、見たままのことをストレートに表現し、しかも自らの疑問に余計な考えを挟まず(例えば、こんなことを聞いたら、園長は気を悪くするかなあ、とか)、まさに「ありのまま」そのものなのです。もちろん、彼がそのことを意識しているかどうかは別問題として、私の学びとしては、大変意義深いものでした。そのとき以来私は、良いとか悪いとかの価値観を超越した素晴らしい問いかけに、すっかり魅了されっぱなしです。

 ところで、私には、園長在職中、いや、いずれリタイアしてからも、決して忘れることはない至極の名言があります。それは、「園長先生、天使に囲まれた素晴らしいお仕事ですね!」というものです。この言葉を耳にしたのは、昨年の運動会の時のことで、丁度その日札幌からお見えになっていた、K君のおじいさまのお姉さま(ちょっと複雑?)が、運動会での子どもたちの様子をご覧になって、私に優しく語りかけてくださったのです。

 子どもたちとの毎日の触れ合いは、その名言を自ら確認し、確信し、確証を得るための営みに違いないと、日々実感しています。

 多くの佼成天使たちは、私の心を浄めてくれるために、毎日天から降りて素敵な宝石をプレゼントしてくれているのかもしれません。

 ありがとう、佼成天使たち!

 最後に、懸案の私のお腹に関してですが、何とか彼の疑問を解決してあげなければ申し訳ない、と本気で思っています。ぜひ皆さまのお知恵をお貸しください。  

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2013年6月号)

2013/06/01 9:00:00

A君の“オハヨウゴザイマス
  ~ “0限目”は楽し ~

 5月半ばのある朝、年長組のA君がバスを降りてきました。私の前に立って会釈をしながら、口が動いたことを、私は見逃しませんでした。声は聴こえませんでしたが、口は確かに、「オハヨウゴザイマス」と動いていました。

 実はA君は、年中組の昨年、かなりの長い期間、玄関前では、私と一瞬見つめ合って、そのまま六角ホールに入っていくという状態が続きました。私は、「いずれは必ずできるようになるのだから」との思いで、取り立てて注意することなく、見守ってまいりました。3学期になると、頭を下げるようになりました。頭の下げ方は、日を追うごとに角度が深くなり、学年末には、どの子にも引けを取らないほど、より丁寧になってきました。しかし、残念ながら、口を動かすことはありませんでした。(彼の名誉のために注釈しておきますが、彼は全く話せないのではありません。ただ、特別な場面での緊張感や恥ずかしさが、そうさせているだけなのです。)

 そんなA君が、「オハヨウゴザイマス」と口を動かしてくれたのですから、私の心には、驚きと同時に、嬉しさが込み上げてきました。

 「挨拶がきちんとできること」、これは、「社会人にとって求められる資質は何か?」という問いに対する、ほとんどの雇用者からの回答です。保護者の皆さまは、その事実に驚かれるでしょうか、それとも本当にその通りだと思われるでしょうか。社会で活躍しようとする人たちに、幼い時から「人間関係の鍵」として大切だと教えられてきた、「挨拶しなさい」から始めなくてはならないということは、本当に憂慮すべきことだと思います。しかし、それが現実なのです。

 誰しも、挨拶そのものを知らないわけではなく、また、挨拶をしなければならない、ということも承知しています。しかし、「その時その場で実践できなければ、知らないのと同然」と言われても仕方ありません。

 私は、園長就任以来、歴代の園長先生方に倣い、基本的には毎朝、園児たちと「おはようございます」の挨拶を交わしています。その時間帯は、私にとっての「0限目」です。というのも、「おまいり」によって始まる1限目の前のこのひととき、いやこの瞬間が、私自身の貴重な保育時間だからです。

 それは、「セレモニー」ではなく、「挨拶」という将来にわたっての必須アイテムを身につけるための、かけがえのない「トレーニング」なのです。人間形成の上で大切な幼児期に、人間としての基盤づくりのための稽古相手をさせてもらっているのですから、これほどの幸せはありません。

 朝の挨拶を交わすと、子どもたちのいろいろな姿が目に飛び込んできます。時として、目に見えない心の動きを感じることもあります。0限目のトレーナーは、その見えないメッセージをしっかりキャッチできる自分自身でありたいと、心底から願っています。

 佼成学園学園長である庭野日鑛先生は、 ご著書の中で、次のように述べておられます。

「挨拶」という言葉は、もともと仏教の言葉です。挨も拶も、「近づく」「迫る」という意味で、師が弟子に問いを発し、その応答によって精進の進みぐあいを はかったのがその語源です。

 (引用:『心田を耕す』庭野日鑛著)

 A君の様子を見ていると、彼の声が私の耳に届く日も、もう間もなくのことと確信しています。その日が来るのを楽しみに、玄関で待ち続けたいと思います。期待とは、「心を決めて、“待つ”こと」なのですから…。

 最後に、問題です。「挨拶はいつやるか?」「(  )でしょ!」。

 ※空欄に入る適当な漢字1字を記入してください。        

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2013年5月号)

2013/05/01 9:00:00

「気をつけなきゃ!」
  ~これが、子どもの心理なのです。~

 『ことわざ慣用句辞典』を眺めていると、「親の心子知らず」の反対の「子の心親知らず」という言葉にでくわしました。「成長していく子どもの気持ちは親には理解できないということ」を意味しているようです。確かに、そうかもしれません。

 今月この言葉を取り上げたのは、次の二つの事例をとおして、親御さん方に警告を発したいからなのです。少し大袈裟になってしまいました。しかし、あまりにも身近なことではありますが、とても恐ろしい現実(?)があることを知っていただきたいのです。

事例1 「夫婦げんか編」

 夫婦げんかのときの、子どもの心理とはどんなものでしょうか?ただし、けんかの内容は、子どもとは一切関係のないことといたします。―では、Thiking time!-

答え 「パパとママがけんかしている。それは僕(私)のせいなんだ。僕(私)がいい子じゃないから、二人はけんかしているんだ。僕(私)が悪いんだ。」

 皆さんどうでしょう?おそらく、「なんでそんなこと思っちゃうの?あなたには関係のないことなのに…。」でも、これが現実なのです。その場の空気を素直にストレートに吸収してしまう子どもは、「自分が悪い」と感じてしまうものなのです。「自分が悪い」という感情は、「自己肯定感」とは真反対の「自己否定感」であり、子どもの自信のなさにつながります。  夫婦喧嘩は犬も食わぬ。気をつけなきゃ!

事例2 「ご近所との立ち話編」

「お宅の〇○ちゃん、大きくなったわね。うらやましいわ。」「そんなことないわよ。身体だけは大きくなったけど、やることなすことグズでダメなのよ。ホント、ガッカリ。」

こんな会話をそばで聞いている子どもの心理とは?―では、Thiking time!-

答え 「僕(私)のママは、僕(私)のことをダメだと思っているんだ。」「大好きなママに嫌われたら、僕(私)はどうしたらいいんだろう。」

 事例の会話は、少し極端なものかもしれません。しかし、それに近い会話を交わすことは、しばしばあることです。大人であれば、謙遜しての発言だということはわかります。しかし、子どもは、そんな大人の心の機微(?)をわかるはずがありません。何気ないひとことで、知らず知らずのうちに、子どもに喪失感を与えているのです。気をつけなきゃ!

 他にも、大人の不用意な発言で、想定外の感情を子どもたちに芽生えさせていることがあるはずです。自戒したいと思います。

 ところで、気をつけなきゃ!と言えば、日常生活に身近な乗り物の自転車。以下は「自転車安全利用五則」です。親子共々ぜひお守りいただき、くれぐれも交通事故に遭わないよう、起こさないようお気をつけください。

①「自転車は、車道が原則、歩道は例外」

②「車道は左側を通行」

③「歩道は歩行者優先で、車道寄りを徐行」

④「安全ルールを守る

  →飲酒運転・二人乗り・並進の禁止

  →夜間はライトを点灯

  →交差点での信号遵守と一時停止・安全確認

→運転中の携帯電話等の使用・傘さし運転の禁止」

⑤「子どもはヘルメットを着用」

心も身体も健康で、楽しい幼稚園生活が続きますように…。       

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2013年4月号)

2013/04/01 9:00:00

“こ・う・せ・い” ワールドへようこそ!」
~ 宣誓、我々佼成スタッフ一同は… ~

 いよいよ平成25年度の幕開けです。

 新入園児の皆さん、ご入園おめでとうございます。そして、新年中・新年長のお友だち、ご進級おめでとうございます。

 保護者の皆さまにおかれましては、希望の大きさと同じくらいの不安とともに、新年度を迎えられたのではないでしょうか。私も、同じ心境です。誰一人として、明日という日を生きた人はいないのですから、不安はつきもの。でも人間は、何らかの経験や叡智によって、歩みを進めていくのだと思います。  

 私に関して言えば…。何と言っても、380名の天使のような可愛い子どもたちがいます。さらには、親愛なる保護者の皆さまがそばにいてくださいます。そのことを心の支えとして、一歩一歩、歩んでまいります。

 就任一年目の昨年度は、さまざまな試行錯誤の中で、しばしば子どもたちに「みんなの一番の宝物は何?」と問いかけてきました。例えば、誕生会。私の出番がプレゼント贈呈の直後だけに、(中身がお皿であることを知っている)年中・年長の子どもたちからは、大きな声で元気よく、「オサラー!」という想定外の答えが返ってきたこともありました。子どもたちにしてみれば、その場の空気を読んでの名答(?)だったかもしれません。「正解は、“い・の・ち”だよ」と伝えてからは、その答えが大半を占めるようになりました。

 自分のいのち、他人のいのち、ひいては生きとし生けるもののいのちを尊ぶことこそが、宗教(=人間としての生き方)、そして教育(=人格完成が目的)の原点だと、私は信じています。今年度も、そのことを、繰り返し伝えていくつもりです。

 ふと、私の覚書の手帳(別名「ネタ帳」)をめくっていると、平成25年2月2日に記した、オリジナルの「あいうえお作文」が、目に飛び込んできました。

「こうせい」って何?

こ この世に

う 生んでいただいた

せ 世界でたった一つの

い い・の・ち

 「佼成」には、「人と人との交わりをとおして、人格完成(仏教では“成仏”という)を目指す」という意味があるのですが、子どもたちへのメッセージとしては、上記のほうがいいかなあ、と思っています。

 4月8日は、お釈迦さまがお生まれになった「降誕会(こうたんえ)」。一般的には、「花まつり」として、多くの寺院でもお祝いとともに、「甘茶かけ」の行事が行われます。

 お釈迦さまがお生まれになったとき、七歩歩いて「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」とおっしゃったというエピソードが残されております。それはもちろん史実ではなく、お釈迦さまだけが尊い、ということを意味しているのでもありません。「生きとし生けるものはすべて尊い存在である」ということを示唆しているのです。つまり、平たく言えば、「ダメな子は誰一人としていない」ということなのです。

 今年も、保護者の皆さま方にとって、「“愛おしくて愛おしくて仕方のない”大切な宝物をお預かりする」という聖業に、佼成学園幼稚園のスタッフ一同、誠心誠意努めさせていただくことを、お誓いいたします。

 毎月の「給田だより」が、保護者の皆さまとの“心と心の架け橋”になってくれることを、切に念じながら…。    

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2013年3月号)

2013/03/01 9:00:00

「いよいよ“大変”な3月がやってくる」
~ 変身する子どもたち ~

 園長の「給田だより」も、早いもので3月号となりました。可愛い子どもたちとのたくさんの思い出とともに、1年間の経過をしみじみと顧みております。

 のっけからいささか唐突な質問ですが、皆さまは、「大変」という言葉はお好きでしょうか?一般的なイメージからすると、できれば避けたい感じの言葉だと思います。

 手元の『岩波国語辞典』によれば、「大変」の意味を、次のように記述してあります。

①程度がはなはだしいこと。特に、苦労が並並ではないこと。

②一大事。大事件。一大事とも言うべき重大な様子であること。

 実は私は、ある時からこの言葉を、どちらかと言うと、前向きのイメージで受け止めるようになりました。“「大変」というのは「大きく変わる」と書く”という記述に出会ったことが、そのきっかけでした。

 プラスイメージで、改めて上の意味を捉え直してみると、①の意味からは、「決して楽ではないが、やり通すことができれば報われることも大きいこと」とも読み取れます。また、②の意味からは、「一大転換のとき」、つまり「大切なターニングポイント」とも受け取ることができるのです。

 ついつい、「大変だからできない」とか「大変なことは嫌だ」と、愚痴をこぼしてしまうのが人情というもの。しかし、「大変」の意味を積極的な見方に変えてみるならば、決して「困難なもの」でもなく、また「万事休す」でもないのです。

 変わることがなければ、人間に進歩はあり得ません。変わることをまず受容して、その変化を大いに楽しもうではありませんか!(中年の主張?)

 さあ、いよいよ今年最後の月である3月がやってきます。幼稚園にとっての4月から3月まで、どの月をとっても変化のない月などありはしません。しかし、3月ほど大きな変化のある月はないと思います。

 子どもたちは、4月には入学・進級という新たなステージを迎えることを意識しながら、最後の1か月を過ごすに違いありません。 私は心躍る気持ちで、今月号のタイトルをつけました。まるでゴール前のラストスパートのように、必死に頑張り大きく変わろうとしている子どもたちの姿を、一瞬たりとも見逃してなるものか、との決意です。

 大人である私たちも、「ああ忙しくて大変だ」などと言ってはいられません。「よし、大きく変わっていこう!」との気構えで、1年間の有終の美を飾りたい、と願っています。    

 ところで、私は、折あるごとに、子どもたちに「“あいさつ・げんき・おてつだい”が大切だよ」と話してきました。子どもたちもその意味をしっかりとくみ取り、日々幼稚園で実践し、ご家庭でもその成果を見せてくれていることと思います。3月をその「仕上げ月間」とし、私自身もより真剣に子どもたちと向き合ってまいりたいと存じます。

 輝く瞳の子どもたちが、「ウルトラ大変身」してくれることを、心から期待して。

 シュワッチ!        

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2013年2月号)

2013/02/01 9:00:00

投げられた ところで起きる ・・・
~ 自分の花を咲かせる ~

 今月もまた、読者である保護者の皆さまのお顔を思い浮かべながら、パソコンに向かえることを、心から有り難く思っております。

 さて、2月号は、私の「座右の銘」について、です。58年間の人生で、多くの珠玉の言葉に励まされてまいりましたので、一つに限定するのは、かなり困難な作業です。

 しかし、あえて絞るならば、「投げられた ところで起きる 小法師(こぼし)かな」という、作者不詳の古歌をあげたいと思います。

 この古歌に出会ったのは、もう20数年前のことです。曹洞宗の著名な尼僧である青山俊董先生から直接いただいたご著書に記されていることばでした。この古歌に触れたとき、脳裏には雷鳴が轟きました。

 小法師とは「底におもりがあり、倒してもすぐ起き上がる、だるま人形」、つまり「起き上がりこぼし」のことなのですが、まず驚いたのは、その「起き上がりこぼし」に、「小さな法師」の文字が充てられていることでした。仏教に多少なりとも浸ってきたつもりだったのですが、認識の甘さを思い知らされました。

 「法師」とは、仏教用語で、「教えを説く人」のことを言い、「小さな法師」とは、私流の解釈によれば、「修行を志した初心の人のこと」と受け取りました。

 そのことにもまして、インパクトを受けたのは、その意味する内容です。

 言うまでもなく、「起き上がりこぼし」は、たとえどんなところへ投げられたとしても、しっかりと重心を保ち、ちゃんと起き上がります。つまり、投げられる場所に文句を言うこともなければ、投げられ方に注文を付けることもありません。どんな場所でも、どんな投げられ方をしても、その場その場で、ちゃんと起き上がるのです。

 その姿勢を、人生に当てはめて言うならば、与えられた条件や環境に文句や不平不満を言わず、なすべき自分自身の使命・役割を果たしていくこと、と言えましょう。

 昨年発刊のベストセラーに、キリスト者である渡辺和子先生の『置かれた場所で咲きなさい』があります。私も5月に購入し、1日で読了しました。そこに述べられていることも、同じような趣旨であったと思います。

 小法師が、コツコツと修行すると、やがては中法師、そして大法師になっていくのでしょうか。私は、その大法師を知っています。

 その方こそ、佼成学園幼稚園創立者の  庭野日敬先生(立正佼成会開祖)です。新潟の寒村に誕生された庭野日敬先生は、一庶民でありながらも、「多くの人々を救いたい、世界に平和をもたらしたい」との志を一生涯持ち続け、大(法)師となられました。1999年ご入寂の先生に対し、佼成学園の現学園長である庭野日鑛先生(立正佼成会会長)は、生前の多大なご業績を讃え、「開祖日敬 一乗大師」のご法号をおくられました。

 「座右の銘」と違って、「尊敬する人は誰?」と問われれば、私は躊躇なく「庭野日敬先生」と答えます。迷い多い日々に四苦八苦しながらも、「先生のようになるのは、無理かな…。でも、先生のようになりたいなあ…」と願う今日この頃です。       

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2013年1月号)

2013/01/01 9:00:00

私がもらったお年玉
~「スポーツ観戦」に学ぶ~

 あけましておめでとうございます。日頃「給田だより」をお読みくださり、心より感謝申し上げます。時折聞かせていただく皆さまのご感想が、私にとって何よりものエネルギー源です。今年も、さまざまな出来事や学びをとおして、「心を耕す」ことに意を尽くし努力してまいります。なにとぞご愛読くださいますよう、よろしくお願いいたします。

 ところで、「スポーツの…」と言えば、やはり「秋」でしょうが、「スポーツの正月」もあり、というのが年明け早々の私の心境です。

 自称「スポーツ評論家」(?)の私は、文化系の部活動(演劇・音楽・弁論)をやってまいりましたので、体育系にはずっと縁がありませんでした。しかし、二人の息子たちが、中・高・大とそれぞれアメリカンフットボールとサッカーをやってきたこと、そして、前任の専門学校で、バレーボール部の部長をしていたことなどから、私なりではありますが、スポーツの素晴らしさを実感してきたつもりです。中でも、一昨年の夏、専門学校のバレーボール全国大会に学生たちと出場できたことは、私にとっても「青春」であり、その時の感動は、今でも私の涙腺を刺激します。

 そんな私が、2013年の最初に取り上げる話題は、「箱根駅伝」です。

 毎年、数々の感動を提供してくれる「箱根駅伝」。今年は何と言っても、日本体育大学を語らずにはいられないでしょう。昨年19位、しかも襷を繋げることができなかった同校が、30年ぶりに総合優勝したのですから。

 私が着目した1点目は、「3年生主将の存在」です。1年前の大敗北の時、別所健至監督は、みんなの前で悔し涙を流しました。そして、翌年のリベンジに向けて監督は、何と新3年生の服部翔大君を主将に指名したのです。常識的には、新4年生になる先輩にとっては耐えがたいことだったことでしょう。しかし監督は心を鬼にし、その方針を貫き通しました。そして、監督の涙に奮起した部員たちは心を一つにし、おそらくは予想する人も少なかった「優勝」という快挙を成し遂げたのです。

 私は、「異体同心」(身体は違っても心を一つにしなければ何事も成就しない)という言葉の重みを、改めて痛感しました。

 2点目は、「監督の1年間の指導内容」です。あいさつやトイレのスリッパをそろえる、といった生活の基本から始まり、練習前にグラウンドも清掃するなど、「当たり前のことをいかにきっちりやるか」に照準を合わせました。「見えないところを徹底することで、ダレた雰囲気がなくなった」とのことです。

 まさに、「脚下照顧」(自分自身の足もとを見よ)あるいは「凡事徹底」(平凡なことを非凡に繰り返す)という言葉の真価を見た思いです。

 これらの言葉は、まさに真理そのものであり、幼児教育のさまざまな場面にも通じる、いや活用すべき貴重なメッセージ(教え)であると思っています。

 58歳の私がもらったお年玉袋には、「異体同心」「脚下照顧」「凡事徹底」の三つの四字熟語が入っています。「評論」でなく、「実践」いたします。         

松森憲二拝