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2013年6月

園長の「給田だより」(2013年6月号)

2013/06/01 9:00:00

A君の“オハヨウゴザイマス
  ~ “0限目”は楽し ~

 5月半ばのある朝、年長組のA君がバスを降りてきました。私の前に立って会釈をしながら、口が動いたことを、私は見逃しませんでした。声は聴こえませんでしたが、口は確かに、「オハヨウゴザイマス」と動いていました。

 実はA君は、年中組の昨年、かなりの長い期間、玄関前では、私と一瞬見つめ合って、そのまま六角ホールに入っていくという状態が続きました。私は、「いずれは必ずできるようになるのだから」との思いで、取り立てて注意することなく、見守ってまいりました。3学期になると、頭を下げるようになりました。頭の下げ方は、日を追うごとに角度が深くなり、学年末には、どの子にも引けを取らないほど、より丁寧になってきました。しかし、残念ながら、口を動かすことはありませんでした。(彼の名誉のために注釈しておきますが、彼は全く話せないのではありません。ただ、特別な場面での緊張感や恥ずかしさが、そうさせているだけなのです。)

 そんなA君が、「オハヨウゴザイマス」と口を動かしてくれたのですから、私の心には、驚きと同時に、嬉しさが込み上げてきました。

 「挨拶がきちんとできること」、これは、「社会人にとって求められる資質は何か?」という問いに対する、ほとんどの雇用者からの回答です。保護者の皆さまは、その事実に驚かれるでしょうか、それとも本当にその通りだと思われるでしょうか。社会で活躍しようとする人たちに、幼い時から「人間関係の鍵」として大切だと教えられてきた、「挨拶しなさい」から始めなくてはならないということは、本当に憂慮すべきことだと思います。しかし、それが現実なのです。

 誰しも、挨拶そのものを知らないわけではなく、また、挨拶をしなければならない、ということも承知しています。しかし、「その時その場で実践できなければ、知らないのと同然」と言われても仕方ありません。

 私は、園長就任以来、歴代の園長先生方に倣い、基本的には毎朝、園児たちと「おはようございます」の挨拶を交わしています。その時間帯は、私にとっての「0限目」です。というのも、「おまいり」によって始まる1限目の前のこのひととき、いやこの瞬間が、私自身の貴重な保育時間だからです。

 それは、「セレモニー」ではなく、「挨拶」という将来にわたっての必須アイテムを身につけるための、かけがえのない「トレーニング」なのです。人間形成の上で大切な幼児期に、人間としての基盤づくりのための稽古相手をさせてもらっているのですから、これほどの幸せはありません。

 朝の挨拶を交わすと、子どもたちのいろいろな姿が目に飛び込んできます。時として、目に見えない心の動きを感じることもあります。0限目のトレーナーは、その見えないメッセージをしっかりキャッチできる自分自身でありたいと、心底から願っています。

 佼成学園学園長である庭野日鑛先生は、 ご著書の中で、次のように述べておられます。

「挨拶」という言葉は、もともと仏教の言葉です。挨も拶も、「近づく」「迫る」という意味で、師が弟子に問いを発し、その応答によって精進の進みぐあいを はかったのがその語源です。

 (引用:『心田を耕す』庭野日鑛著)

 A君の様子を見ていると、彼の声が私の耳に届く日も、もう間もなくのことと確信しています。その日が来るのを楽しみに、玄関で待ち続けたいと思います。期待とは、「心を決めて、“待つ”こと」なのですから…。

 最後に、問題です。「挨拶はいつやるか?」「(  )でしょ!」。

 ※空欄に入る適当な漢字1字を記入してください。        

松森憲二拝

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