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給田だより

園長の「給田だより」(2016年7・8月号)

2016/07/01 7:04:21

「もう一つの“五育”のすすめ」   ~天から降りてきた「実践的保育論」!~

教育における「○育」と言えば、皆さまは何をイメージされるでしょうか?やはり何と言っても、「知育」「徳育」「体育」でしょう。そして今日、学校教育の中にもすっかり定着してきたのが「食育」です。つい最近になって、木育(もくいく)というのがあるのを知りました。「市民や児童の木材に対する親しみや木の文化への理解を深めるため、多様な関係者が連携・協力しながら、材料としての木材の良さやその利用の意義を学ぶ教育活動のこと」だそうです。他にも、マイナーながら(と言えば、各関係者に失礼ですが…)花育(はないく)」「服育(ふくいく)」「住育(じゅういく)など、教育の分野には多岐にわたる新語・造語が、メジャーデビューを目指してスタンバイしているようです。

今号の「給田だより」では、上の「知育」から「木育」までを、幼稚園での保育活動に当てはめながら、改めて幼稚園生活の意義について考えてみたいと思います。

まず、幼稚園における「知育」とは何でしょうか?佼成学園幼稚園の案内リーフレット表紙の キャッチコピーである“子どもたちの「できた!」「わかった!」「やってみたい!」”(DWY)は、まさに「知育」の目指すものそのものです。知的好奇心を基として、子どもたちの対応力や積極性を養っていくことが、「知育」に他なりません。

次に、「徳育」とは?佼成学園創立者庭野(にっ)(きょう)先生は、「佼成学園は、青少年に知育・徳育ばかりでなく、これらと併行して宗教的情操教育をほどこすという方針を鮮明に打ち出した学校であります」と明言しています。文脈からすれば、宗教的情操教育こそが「徳育」に当たると言えましょう。庭野先生は、「正しい心を育て、人間らしい心を はぐくむことこそ、すべてに優先すべき大事である」とし、「人間にとって一番大事なのは、人さまの心、つまり、人の喜びや悲しみがよく分かる心だ」とご指導くださっています。その上で、「礼儀と親切という二つの美徳をおし進めることに最大の重点を置いてもらいたい」と念願しておられます。子どもたちとの「三つの約束」のうちの 「あいさつ」と「おてつだい」は、上の礼儀と親切を、より具体的に表現したものなのです。

「体育」についてはどうでしょうか?「日本一の幼児体育園」をスローガンにしている佼成学園幼稚園なのですから、「体育」は本園の真骨頂とも言えましょう。「すべての子どもたちを、運動大好き人間にする!」という熱い願いは、プールを含む正規の体育関連授業のみならず、広い園庭や体育館で繰り広げられる日常の遊びの中にも、深く息づいています。とりわけ、10月の運動会は出色のイベントであり、私は4年前から、「給田 オリンピック」と呼んでいます。園児たち、いや、佼成のキッズアスリートたちが与えてくれる感動が、あまりにも素晴らしいからです。

「食育」と言えば、一日保育の際の「お弁当の時間」が思い浮かびます。愛情こもったお弁当の、子どもたちに及ぼす影響力は、計り知れないものがあり、「食育」の絶好の機会となっています。他にも、野菜づくり、カレーパーティー、さつまいもの栽培など、子どもたちの「食」に対する認識を深める機会が用意されていることは、皆さまよくご存じのとおりです。

最後に「木育」についてですが、木を基調とした園舎が、子どもたちの心に、木の味わいの良さを伝えてくれているとしたら、これも立派な「木育」かな、と思っています。

「知育・徳育・体育・食育・木育」、すなわち「五育」について、「ちいく・とくいく・たいいく・しょくいく・もくいく」「ちいく・とくいく・たいいく・しょくいく・もくいく」と何回も口にしているうちに、まるで天啓のように、もう一つの「五育」が脳裏を駆け巡るようになりました。「稚育…得育…耐育…触育…目育…」。そうだ、 「稚育」「得育」「耐育」「触育」「目育」が大切なのだ!こんな思考回路を、他人は、語呂合わせとか言葉遊びとかと言って、嘲笑するかもしれません。しかし、私は本気です!それらは、単なる言葉の言い換えとかではなく、大切な教育的実践を含んでいるのですから。一つひとつ、ご説明してまいりましょう。

まず、「稚育」です。「稚」の文字は、「幼稚」「稚拙」といった熟語から、「幼い・未熟である」という意味がまず浮かびます。しかし私は、「稚」にある「あどけない・無邪気である・邪心がなくかわいらしい」という意味に着目しています。人は誰しも、純粋無垢の心でこの世に誕生してきます。「ありのままの素直さをできるだけそのまま伸ばしてあげたい」という願いが、「稚育」の核心です。江戸時代に盤珪禅師が遺された古歌「幼子の次第次第に知恵付きて仏に遠くなるぞ悲しき」の如く、もともと持って生まれた素直な資質が、年を重ねるごとに薄れていってしまうことは、とても残念でなりません。その素直さを伸ばしていく上で求められるのは、大人たちの「前から目線」です。それは、子どもを一人の人間として尊重する心の姿勢を意味しています。単に子どもだからという理由での「上から目線」は、素直さに傷をつけてしまいます。

次に、「得育」です。「得意分野を見つけ、それを伸ばしてあげること」です。そのためには、「褒めること」が必要不可欠です。「褒めること」の効用は誰もが知っているはずですが、実際にどれほど褒めることができているかというと、「?」の人が多いのではないでしょうか。例えば、「あなたのお子さまの良いところは何ですか?」と尋ねると、とっさに答えが返ってくるのはごく稀なことです。普段から子どもの長所や美点を意識しておくことは、とても大事な心構えであると思います。また、「褒めると、調子に乗ってしまうのでは?」と心配される方もあるようです。しかし、私はあえて「幼児期にその心配はご無用!」と断言します。口先の中途半端な褒め方ならば、かえって逆効果になることもありますが、心底からの賞賛は、子どもたちの「自己肯定感」を着実に育ててくれます。気を付けなければならないのは、時として口にしがちな「うちの子はほんとダメなんだから~」の言葉です。いくら謙遜や冗談のつもりだとしても、子どもにそれは通じません。最も信頼する大人からのダメ出しは、トラウマとなって将来にわたり子どもを苦しめてしまうことになりかねません。

第三の「耐育」、「忍耐」の「耐」ですね。「耐えることを身に付けることは、生き方を大きく左右する」と言っても過言ではありません。お釈迦さまは、我々が日常生活を過ごす世間のことを、「娑婆(しゃば)」と呼んでいます。娑婆とは「サハー」の音写であり、「サハー」とは「忍土」、つまり、「この世は忍耐することが当たり前の世界なのだ」ということを意味しています。これは、「現実世界が苦しみでいっぱいである」ということではなく、「忍耐が当たり前という心構えこそが、日々を充実して過ごす秘訣である」と、教えてくださっているのです。幼稚園も、他人同士が一緒に生活する一つの社会である以上、決まりごとを守り、我慢しなければならないことは数多くあります。幼児期に「忍耐」を身体に染み込ませておくことの意義は、計り知れないものがあります。「耐育」に欠かすことができないのは、「待つこと」ですね。大人の性急な態度は、子どもたちの「耐える力」「我慢する心」の成長を阻害してしまいます。

第四は、「触育」です。「子どもらはギュッとタッチで前を向く」、これは私(二代目求道)の川柳ですが、毎朝園の正面玄関で繰り広げられる親子の微笑ましい光景が、この拙句のモチーフとなっています。スキンシップの重要性は、今更言うまでもありません。子どもの「安全基地」は、大人の温もりによって成立するのですから。子どもとのスキンシップは、決して形ではありません。その行為の奥に、大人の祈り心があるかどうかが問われます。子どもたちは、大人が真剣かどうかを、しっかりと嗅ぎ分けています。

第五の「目育」です。目と目を合わせることは、人間関係づくりの(かなめ)と言っていいでしょう。 私は毎朝玄関で、子どもたちの目を見て、しっかりあいさつをするよう心がけています。私と目を合わせてくれる子は大勢いますが、中には、私に目もくれず、あいさつだけで通り過ぎようとする子もいます。はじめの頃は、「目を見てね」と声かけをしていたのですが、あるときハッと気付きました。子どもたちに「~させよう」としている自分がいたことを。良き習慣をつけてもらうためには、「~すべき」という枠組みで相手を変えようとするのではなく、子どもたちが素直に実践できるような声かけを、私自身がしなくてはならない、と意識を切り替えました。「目を見せてください」とお願いするようにしたのです。すると子ども たちは、私の願いに素直に応じてくれます。1時間余りの朝の挨拶は、「900の瞳」とのアイコンタクトであっという間に時が過ぎていきます。些細な毎日の積み重ねが、目力(めぢから)を具えた「意志ある人間」を育成することにつながるならば、それは園長冥利に尽きる、と言えましょう。

語呂合わせ、いや天の啓示(?)から始まった実践的保育論(もう一つの「五育」)は、子育てにも通じるものと確信しています。よろしければ、この新案無特許の処方箋を、ぜひご家庭でもお試しください。いつも申し上げるように、副作用は全くありません。子どもたちのためばかりでなく、服用する大人をも元気にしてくれます。もちろん、お代は要りません。

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2016年6月号)

2016/06/01 7:07:04

「生んでいただいた“いのち”!」  ~ゾウの母子の情愛に学びたい!~

冒頭から私事で恐縮ですが、5月は私の母と、私と、私の孫の誕生月で、日付は三日連続の17日(満86歳)、18日(満1歳)、19日(満62歳)です。それに因んで(?)、今号では、「誕生」にまつわる話題を、佼成学園学園長の庭野日鑛(にちこう)先生のご指導の中から、二つお届けいたします。  

 一つ目は、ご著書『こころの(まなこ)を開く』の中の次の(くだり)です。毎月、園で実施する誕生会に臨む上で、私自身の大切な心の指針となっています。

ある人が恩師から「誕生日はいつか」と聞かれて、何年何月何日に生まれました、と答えたそうです。すると、「生まれたのではない。生んでいただきました、と言い直しなさい」と叱られたというのです。人間に生まれた、生んでいただいたということは、じつに私たちの感謝の原点といっていいでしょう。仏さまの教えは帰するところ、万物への感謝ということですから、自分の誕生日に対する考え方一つが、真の感謝の心になるか、感謝を知らない身勝手な心になるかの分岐点ともなるでしょう。(中略)誕生日を「生んでいただいた日」と受けとる心になれば、自分をとりまくことはあれもこれも、すべてがありがたいことばかりになるのです。

例年4月と5月の年長組誕生会では、子どもたちの柔らかい素直な心((しん)(でん))を耕すことができたら、と願いながら、「あいうえお作文」を用いて、「こ・う・せ・い」の「う」は「生んでいただいた」の「う」だよ、とお話ししています。

二つ目は、学園長先生が折あるごとにご紹介くださる『お誕生日』という詩。作者は、日本を代表する教育者として有名な東井(とうい)義雄(よしお)先生です。

誕生日おめでとう

お父さんお母さんから

いのちをひきついで

おじいさんおばあさんから

いのちをひきついで

その前のおじいさんおばあさんから

その前のその前のご先祖さまから

いのちをひきついで

何億年も昔からの

いのちをひきついで

あたらしいいのち

この世への誕生

おめでとう、おめでとう

思い起こせば一年前、長男の嫁からの第一報で、私は「じいじ」になりました。ではなく、ならせていただきました。一年間にわたる悲喜こもごもの日々が、有り難い(有ることが難しい)という思いを、より一層深くしてくれています。

ところで、話は変わりますが、今年の子どもフェスティバル(人形劇)の演目の一つは、「ぞうのはなはなぜながい」でした。ストーリーは、ぜひお子さまからお聞きください。得意になって、話してくれることでしょう。ただし、予断なくしっかりと耳を傾けてあげてくださいね。

奇しくも今年のゴールデンウィークに、自宅の断捨離(「いつかはきっと役に立つに違いない…」で溜めこんでいた諸資料の整理)をしておりましたところ、ある切り抜きを見つけました。平成26年2月28日に104歳で亡くなったある詩人を偲ぶ内容でした。その詩人とは、まど・みちおさん。たくさんの童謡を残しておられますが、中でも有名なのが、お馴染みのぞうさん』です。

ぞうさんぞうさん おはながながいのね

そうよ かあさんもながいのよ

誰もが知っているこの歌に、実は深い意味が込められている、というのです。その記事には、<子ゾウは『おはながながいのね』と言われて、ばかにされたとは思わず、ほめられたかのように喜んでいる。みんな違っていることは、すばらしいことだ>とのコメントが紹介されています。また、孫引きながら、別の資料によれば、まどさんは、次のように語ってもいるそうです。

<このゾウが、このように答えることができたのはなぜかといえば、それはこのゾウがかねがね、ゾウとして生かされていることをすばらしきことだと思い、幸せに思い、ありがたがっているからです。誇りに思っているからです。ほんとうに、この世にゾウがゾウとして生かされていることの、なんとすばらしいことでしょう。>

うーん、なるほど深イイですねぇ。子ゾウには、母ゾウからのたっぷりの愛情で「自己肯定感」が具わっているのでしょうね。だからこそ、二番の歌詞が、以下のように続くのでしょう。

ぞうさんぞうさん だれがすきなの

あのね かあさんがすきなのよ 

子どもたちと一緒に何気なく口ずさんでいる童謡の中に、親子のあり方の重要な示唆があり、ゾウの母子の温かい交流をイメージしながら、手本にしなければ、と強く感じています。

現場からは、以上です。いや、かけがえのない日々を過ごしておられる、子育て現場の皆さまに、謹んでお届けいたします。     

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2016年5月号)

2016/05/30 6:30:03

「“礼”をもって“道”を歩む」  ~「言葉遣いが良くなる」ために!~

佼成学園幼稚園の「三種の神器」が「園舎・園庭・温水プール」ならば、「入園三大メリット」が「人に優しくなる・足が速くなる・お手伝いが好きになる」であることは、保護者の皆さまには周知のことと思います。「三大メリット」に対する私の確信は、年を追うごとに深まっています。

実は、私の秘めたる思いの中には、声を大にして言いたい四つ目の「メリット」があります。それは、「言葉遣いが良くなる」です。しかし、なかなかアピールできないまま、5年目の春を迎えてしまいました。というのも、理想と現実とのギャップを感じることが、時折あるからです。

某小学校の先生方との交流の際、「佼成のお子さんたちの言葉遣いはいいですよね。少なくとも、 “バカヤロー”とか“おまえなんか死んじまえー”という言葉は聞きませんから…。他の園から来る子の中には、そういう子もいるんですよ」と言われたことがあります。もちろん嬉しい話には違い ありません。しかし、普段の状況からして、はたして「言葉遣いが良くなる」と言い切れるかというと、残念ながら自信がない、というのが正直な心境でした。「でした」ということは、お察しのとおり、今はそうではない、ということです。安心してください!今年は違いますよ! 「言葉遣いが良くなる」というメッセージを発したい気持ちを大きく膨らませてくれた二つのエピソードを、皆さまにご紹介いたします。

一つ目は、「園児との“掛け合い”」です。佼成学園幼稚園には、何かを始めるときの「よ~いはいいですか?」「よ~いはいいですよ!」という “掛け合い”があります。それによって子ども  たちには、静かにしようとする心構えができ、集中力を高めるきっかけにもなる、“佼成保育”の良き伝統の一つと言えましょう。

ところで、ある日、某女性タレントがMCの男性アイドル二人と幼稚園を訪問し、そこで保育体験をするというテレビ番組を見ながら、私は ふと、オリジナルの“掛け合い”を思いついてしまいました。「な~んのおはなししようかな?」と「えんちょうせんせい、ごじゆうに!」の組み合わせです。3月のお誕生会で早速試行してみたところ、子どもたちはすぐに覚えてくれました。そこで、大胆にも卒園式の話の中で、何の前触れもなく「な~んのおはなし、しようかな?」と切り出したところ、卒園児たちは絶妙のタイミングで「えんちょうせんせい、ごじゆうに!」と答えてくれました。初めて耳にするご家族からは、若干のざわめきとかすかな笑い声が起こりました。無理もありません。嬉しかったのは、卒園式後のある方(卒園児の祖母のお一人)からの声でした。この掛け合いを評価してくださり、「孫たちが “ごじゆうに”という丁寧な言葉遣いを教えてもらえたことが有り難い」と喜んでくださっている、というのです。望外のことでした。

二つ目は、「4月14日の朝の出来事」です。この日、玄関である方(?)から、「これからも、みんなのことを、よろしくおねがいします」という丁寧なご挨拶をいただきました。そのある方とは…?何とその声の主は、1週間前の4月8日に入園したばかりの、年少男児S君だったのです!もちろん、お家で教えてもらったのだろう、ということは容易に想像できます。ただ、現場にいた私が証言できることは、彼には全く“言わされている感”がなかった、ということです。それどころか、むしろ“身についている感”さえも漂っていました。その言葉は、TPOに相応しく、しかも心がこもっていて、私が思わず「はい、かしこまりました」と言いたくなるような丁寧さをもっていました。私は、良い意味でのそら恐ろしさを覚えるとともに、「鍛え甲斐がある子が入園してきたなあ」との思いを強くしたのです。

言うまでもなく、子どもたちの身体をつくるのは「食べ物」です。食べ物が身体をつくり、健康を保ってくれます。ならば、子どもたちの心をつくるのは、一体何でしょう?それは、「言葉」です。言葉こそが心を養い、生き抜く力を身につけてくれるのです。私は、かしこまった言葉遣いがすべて良い、と言うつもりは毛頭ありません。フランクな会話が、日常生活での潤滑油となることを承知しています。ただし、いざというときの言葉遣いに、その人の人格が表れる、ということを踏まえるならば、幼いころから良い言葉遣いを身につけさせてあげたい、というのが私の願いです。できるできないは、二の次です。良い言葉遣いのための環境づくりこそ、大人の大事な役割だと思います。ややもすると、大人の「言葉の乱れ」が、子どもの「言葉の乱れ」を惹き起こし、ひいては子どもの「心の乱れ」まで招いてしまいます。

知人で元警視庁剣道師範のI氏が、ある冊子の中で、「“感謝”を忘れず“努力”する剣道は、相手を打つことで強くなる。だから相手に「感謝」と「敬意」を払って胴着を整え、礼に始まり、礼に終わるのだ」と述べていました。私たち保育者は、いわばより良き保育者となるための「保育道」を、保護者の皆さまも、より良き保護者となるための「子育て道」を、ともに歩んでいるはずです。稽古相手は、目の前の子どもたち。「言葉遣い」においても、私たち大人は、「礼」をもって対峙していかなければなりません。間違っても、怒声や暴言などで、宝物である子どもたちの心を傷つけることがあってはなりません!

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2016年4月号)

2016/04/13 8:19:50

「さようならお友だち、こんにちはお友だち!」  「理想の光」を追い求めて!~

 4月2日、桜満開の上野公園を訪れ、東京都美術館で開催されている「日仏現代国際美術展」を鑑賞してきました。美術にはほとんど無縁の私ですが、家内宛に作品を出展しているSさん (長男の中・高時代のママ友)からご案内があり、二人でしばしの絵画鑑賞を楽しむことができました。大小さまざまな作品の前に立つと、それぞれの作者からのメッセージが心にしみじみと伝わってきたり、あるいは強烈なアピールが胸に迫ってきたりで、「オンリーワン」の世界観(金子みすゞの詩になぞらえれば、「みんなちがってみんないい」)を体感いたしました。春をイメージしたと いうSさんの作品の題は、「楽園の扉」。聞けば、ご主人さまのネーミングとか。園長としての私のテーマは、就任以来一貫して「しい幼稚」(=楽園)。その「扉」なのですから、まさに新学期に相応しい絵であり、幸先の良い新年度を迎えることができそうな、嬉しい予感に包まれました。これこそ今流行(はやり)の「びっくりぽんや」です。

 時計の針を、少し逆回りにして…。去る3月の上旬、朝の玄関で、卒園を目前にした年長女児Nちゃんから、次のようなお手紙をもらいました。

えんちょうせんせいへ

いつもあいさつしてくれてありがとう

いつもあそんでくれてありがとう

いつもわらってくれてありがとう

しょうがっこうでもがんばります

さようなら

中の三行の「ありがとう」のリフレインは、まるで詩人のタッチであり、彼女の才能の片鱗を窺わせてくれます。子どもたちとの別れを前にして、自ずと寂しさを感じるその時期に、嬉しさがこみあげてくるひとときをプレゼントしてくれました。

3月18日の3学期最終日は、例年どおり「新入園児体験入園」の日。年少組の各保育室に初めて足を踏み入れた子どもたち、保育室で過ごす短い時間の中で、早々とさまざまな個性を示してくれました。特に、号泣しながらの「ママがいい~」の合唱(?)は、毎年の風物詩とは言え、タイトルマッチの開始を告げるゴングのような響きです。

150人の卒園児を送り、150人の新入園児を迎える今春、私の脳裏にはある歌詞の一節がその  メロディーとともに巡っています。それは、「集まり散じて 人は変われど 仰ぐは同じき 理想の光」という母校の校歌です。春の足音を聞き始めると、つい口ずさみたくなってしまいます。教育機関においては、毎年のように出ていく人があれば、入ってくる人があります。子どもたちであれ、教師であれ、人の入れ替わりは世の常ながら、志高く「理想の光」だけは決して見失ってはならない、ということを示唆してくれています。「理想の光」とは「建学の精神」であり、その理念を具現化していくプロセスもまた「理想の光」に他なりません。私たちの佼成学園幼稚園は、その「理想の光」があるからこそ、社会から生命(いのち)を与えられ、存在を認知されているのですから、しっかりとその使命を全うしなければなりません。  

佼成学園幼稚園は、創立者庭野日敬(にっきょう)先生が、ご自身の幼い頃の体験から幼児期の重要性を強く認識され、「幼少期の子どもたちの豊かな情操を 培い、健全な心身と共に平和を愛する精神を育む」という願いの基に、昭和30年1月11日に設立されました。佼成学園の「建学の精神」は「行学二道」であり、それは「仏教精神」を基盤としています。「仏教精神」については、いくつもの角度から言及することができますが、一つのアプローチが「お釈迦さまのご生涯から学ぶこと」です。私たちは、折々の行事をとおして、「仏教精神」に触れることができます。

皆さまもご存じのとおり、4月8日は降誕会(ごうたんえ)というお釈迦さまの誕生日です。佼成学園幼稚園では、例年この日を「花まつり・入園式」として、新年度のスタートに位置づけています。お釈迦 さまの誕生にまつわる「天上(てんじょう)天下(てんげ)唯我独尊(ゆいがどくそん)」の言葉を、耳にされた方も多いことでしょう。これは、「生きとし生ける者は、すべて尊い存在である」ということを意味している、と教えていただいています。端的に言えば、「ダメな人は一人もいない」ということです。「ダメな子、ダメな保護者、ダメな保育者は一人もいない」という人間観(保育観)が園内に浸透徹底し、その確固たる理念が園外にも伝わっていってこそ、佼成学園幼稚園の輝きは、より増していくのです。今年度も、雑事に心を  奪われることなく、「園児たちの健全な育成」という普遍(・・)かつ不変(・・)の「理想の光」を一筋に追求してまいります。力強いお力添えを!

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2016年3月号)

2016/03/01 8:08:33

「ママの笑顔は、子のパワー!」  ~子どもの不快感情とどう向き合うか!~

私の思索ノート(いわゆる「ネタ帳」)に、「母親としての成熟度チェック」という題の一頁があります。「幼児教育」や「子育て」に関する数多くの本を参考に、保護者(一部保育者も含めて)にとって大切なポイントを、より現実に即して、私なりにまとめたものです。随時改訂していくつもりですが、現時点のものをご紹介いたします。

《母親としての成熟度チェック》(仮称)

1 子どものケンカ・トラブルに口を出さない。

2 子どもの前で、(家族を含めた)他人の悪口を言わない。

3 子どもより先に、さわやかなあいさつをする。

4 子どもに注意しなければならないとき、感情的にならずに、目を見て、冷静かつ優しく話す。

5 子どもとしっかり向き合い、100%耳を傾けて子どもの話を聴く。

6 子どもは「生きているだけで100点満点」と思っている。

7 子どもの失敗や失態を、単に結果としてとらえるのではなく、プロセスとしてとらえている。

8 子どもの不快感情に向き合ったとき、笑顔でいられる。

8番目のチェックポイントは、昨年秋に加筆したもので、私の中での“新鮮度”(=お伝えしたい気持ちの度合)が最も高い項目です。というのも…。

11月上旬、私の手元にダイレクトメールで届いたのが、『日本教育』という教育雑誌。何気なく頁をめくっていたら、“「親になる」ということ”という特集記事が目に飛び込んできました。筆者は、東京学芸大学教授の大河原美以先生。〈「親が子を気遣う」関係性〉、〈親の顔を見ると安心できる関係性〉という小見出しに興味を魅かれ読み進むうちに、子育て期の保護者の皆さまにとって 貴重な内容であることがわかり、一気に読み終えてしまいました。

タイトルの「親になる」とは、どういう意味なのか、筆者は端的に、「親になる」ということは、「子の安心・安全」を中心に思考し行動することができるようになることです、と述べています。親ならば、誰しも「子の安心・安全」を中心に考えるのは当然のことでしょう。しかし昨今、世間で起こっているさまざまな悲惨な事件を耳にするたびに、親だから当然とは言い切れないモヤモヤ感を拭い去ることはできません。

皆さまは、(程度の差はともかく)目の前のお子さまがイライラしているとき、お子さまにどのように接していらっしゃるでしょうか?もちろん、忙しい手を止めてきちっと子どもに向き合い、子どもの気持ちをしっかり受け止める努力をされていることでしょう。しかし、時には、親の方がかえって不機嫌になり、それによって子どもの不機嫌さがさらに増していく、ということはないでしょうか。例えば、「なに泣いているの!そんなことで泣くのはやめなさい!」と、かえって叱りつけてしまう…。ありがちな話かもしれませんね。

筆者は、親が「自分の安心・安全」を中心に思考し行動していると、おのずと「子が親を気遣う」ようになり、「小学生以降になると、子は自分が不快なときに親の顔をみるとさらに不快になるので、親を信頼しなくなってしまう」と警告しています。そして、「この関係性が知らず知らずのうちに、子どもに不快感情を表出しないことを求めるという関係性に陥りやすくなり、この関係性が、さまざまな心理的問題の温床になってしまう」と述べているのです。「心理的問題」と言えば、不登校、いじめ、ひきこもり、家庭内暴力などのことを、容易に想起することができます。

 筆者は、親子関係のよしあしは、「子どもが不快感情を抱えているときに、親の顔をみると安心するという関係性が構築されているかどうか」にかかっている、と述べ、「子どもが不快なときに親の顔をみると安心する関係性」が構築されるためには、「子が親を気遣う」のではなく「親が子を気遣う」関係性がその前提として必要である、と結論づけています。子どもに気を遣わせるようにはしていないか、子どもが親の顔色を窺うような様子はないか、気がかりな人もそうでない人も、この機会に一度、振り返ってみてはいかがでしょうか。万が一心配な状況があったとしても、幼児期は、十分に取り返しがつく年代なのですから…。

子どもの心が安定し、限りない可能性を発揮するとき、それは「ママが笑顔でいてくれるとき」。 「ニコニコママが最良の先生であること」、4年間の園長生活の中で、子どもたちとの触れ合いが 導いてくれた、私の確信の一つです。

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2016年2月号)

2016/02/10 8:02:13

「子どものウソにどう向き合うか?」  ~ともに成長するきっかけに!~

「愛の反対は憎しみではなく無関心です」とは、マザー・テレサの有名な言葉です。愛する子どもの発言や心の動きに関心を寄せるのは、親として当たり前のことのはずなのですが、時折、信じがたい情報が耳に飛び込んできます。「それが親のすることだろうか?」と思わせるような虐待が行われたり、そこまでひどくなくても、日常生活の中で子どもの面倒をスマホに任せたりするとか…。マザー・テレサがご存命ならば、想像を絶するほどの深い嘆きの声が聞こえてきそうです。

子どもへの関心なしに子育てを語ることはできません。ただし、神経質になり過ぎてしまうと、かえって子どもの心を傷つけてしまうことがあり得るということを、我々大人は知らなければなりません。“幼児のつくウソ”が、その一例です。

 「ウソに神経質になってはならない」と書けば、皆さまからお叱りを受けてしまいそうです。もちろん、ウソはいけないことに決まっています。子どもたち自身にも、しっかり刷り込まれています(安心してください。知ってますよ!)。しかし、そのウソを一方的に「ダメ」と決めつけてしまうことで、かえって子どもの心をゆがめてしまう時期もあるのです。「ウソをついてはいけない!」という叱声が、「あなたはウソつきの悪い子、そんな子は大嫌い!」という否定的なメッセージになってしまう危険性を、見逃すわけにはいきません。

幼児のウソの特性を理解する上で、手元に貴重な資料がございます。平成25年11月1日発行の世私幼機関紙『せしよう』に掲載されている「嘘について(幼児のつく嘘)」という講演レポートです。その中で、世私幼顧問で愛珠幼稚園長の天野珠子先生は、幼児のウソを三分類されています。

(1)自分に不都合な場合や失敗したとき、非難や叱られることから逃れようとするためにつくウソ

(2)親や先生、友人などの気を惹きたい、話題の中心にいたい、など自分に関心を向けてほしい場合のウソ

(3)夢や想像と現実とを混同しているときのウソ

年齢的に、幼児期のウソは、大人が心配するほどのものは少なく(問題にすべき悪意のあるウソはそう多くない)、むしろそれらを、より良い親子関係づくりに活かすべきだ、と私は考えています。 

一つ目のウソ、例えば、何かしてしまったときの「僕じゃないよ」の言い逃れだったり、「○○ちゃんが悪いんだよ」という他に責任を押し付ける場合などは、言わば自己防衛本能がつかせるウソです。子どもにしてみれば、それほどの悪気はなく、「つい、思わず」というほどのものでしょう。もちろん、これらに対し、自己責任の大切さを伝えるためにその都度注意していくことは必要なことです。しかし、くれぐれも留意しなければならないのは、頭ごなしに叱るのではなく、言い訳をしたくなる気持ちをまず理解した上で、それがどうしていけないかということを、淡々と伝えて いくことです。大人が冷静であればあるほど、伝えたい内容はストレートに伝わっていきます。 本人も、いけないことはわかっているのですから。

二つ目のウソからは、子どもの内心の切ない気持ちが伝わってきます。例えば、実際はそうでなくても「今日、先生に褒められた」とか、行っていないのに友だちに「休みに○○に行った」など。この種のウソについては、子どもの心に何か満たされないものがあるのではないか、仕事や下の子の世話などで無関心になってはいないか、などを振り返る絶好のチャンスととらえてみるのはいかがでしょうか。しつけが厳し過ぎないか、親のこだわりが強すぎないか、過度の期待がなかったか、などの内省は、より良い親に成長していくための登竜門である、と言えば言い過ぎでしょうか。

三つ目のウソは、言わばファンタジーの世界です。幼い子どもの場合、夢(期待)と現実を混同し、夢を本当のことと思ってしまうことがあります。3、4歳代には特にそれが顕著で、特にテレビや絵本などに関心の強い場合、憧れの主人公に成りきってしまうことがあります。また、就寝中に見た夢と現実との混同もあります。これらは、幼児特有の一過性のものですから、「そんなことを言って!」と目くじらを立てることなく、相手に調子を合わせ、ヒーローやヒロインにならせてあげてください。きっと喜びますよ! 

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2016年1月号)

2016/01/12 14:44:49

「親の思いが報われる子育てを!」 ~基本的信頼関係こそが、最大の要~

比較的穏やかな天候に恵まれ、平成28年の幕開けを迎えました。明けましておめでとう ございます。本年もよろしくお願いいたします。

新年の楽しみの一つ、「年賀状」。自称ハガキスト(葉書を書くことを趣味としている人)の私ですが、公的なものは別として、私的な年賀状に関しては、年末の雑務・雑用を言い訳に越年し、いただいた方にお出しするのがやっとというのが、ここ数年の有様です。とは言え、1年に1回手元に届く親しい方々からの近況報告は、やはり嬉しいものです。とりわけ、ニューフェィスの可愛い写真には、思わず目を奪われてしまいます。おそらく新米のママたちは、「嬉しさ半分、不安半分」で日々を過ごしているのでは、と思いを馳せ、老婆(爺?)心ながら、子育てに喜びを見出してほしい、との願いを込めて、「ただひたすらに母性を磨き続けて ください」とのエールを書き添えました。

ところで、「子育てに正解はない」という言葉をよく耳にします。子育てに迷ったとき、自信を失いかけたときに、このフレーズがどれほど親を慰め励ましてくれることでしょう。 特に、第一子の親にとっては、毎日の子育ては未体験の連続であり、周りに相談できる人があれば まだしも、そうでない場合には、不安に押しつぶされそうな毎日ではないでしょうか。ともすると、さまざまな情報に振り回されたり、またその通りにできないことでさらに悩みを深めてしまったり…。万人に通じる子育てのマニュアルなど存在しません。一人ひとりの親が、そのときどきに自分の子どもに精一杯関わること、それが「一人ひとりの子育て」だと思います。

上のことは十分に承知しながらも、年頭に当たり、松森版の「子育ての要諦」をお伝えいたします。テーマは、「親の思いが報われる子育てのポイント」です。それは、1) 子どもが可愛いという思いを自覚すること、2) 言語能力発達途上の子どもであることを踏まえること、3) 親の思いの伝え方に配慮すること、の3点に集約することができます。

はじめの、「子どもを可愛いという思い」について。あえて言及するまでのことはないでしょう。親ならば、誰もが子どもを可愛いと思わないはずはありません。たまに聞く「子どものことを可愛いと思えない」という声、これはあくまでも例外中の例外であり、そう思えないことの辛さがないまぜになった悲痛の叫び だと、私は理解しています。特別な原因や理由さえ除去されれば、親としての本来の素直な気持ちに立ち返ることができます。

次に、親の思いを届ける先の子どもの状況についてですが、「子どもの言語能力は発達途上である」ということを、いつも忘れてはならないと思います。人間という動物は、身体的能力はもちろんのこと、言語的能力も未発達のまま 誕生してきます。その時点から、親をはじめとする周囲との関わりをとおして、子どもは想像を絶するほどの能力を発揮し、言葉を覚えその遣い方を習得していきます。そして、幼児期にもなれば、ある程度、親とのコミュニケーションがとれるようになってきます。ここから先が、大事なポイントです。少しずつコミュニケーションに手応えを感じることができる頃になると、親の口から、「どうして分からないの!」「何度言ったらわかるの!」「さっき言ったばかりでしょ!」といった定番の表現が飛び出してくるようになります。親の側にある「通じて当たり前」という感覚(期待もあるとは思いますが…)が、きっとそう言わせているのでしょう。いくら素晴らしい成長を遂げたと言っても、子どもの言語能力は発達途上なのです。その前提を忘れることなく、丁寧に思いを伝えていくことが求められます。

最後に「親の思いの伝え方」。これこそが、子育ての最重要ポイント、と言っても過言ではありません。どのように伝わるかは、子どもの感情・性格形成の上で重要な要素となります。子どもたちの感性を無視したり、侮ることがあってはなりません。日々の触れ合いを大切に、感情的にならず、基本的信頼関係を深めるような配慮に努めることが大切です。つまり、「可愛いという思いを、丁寧に噛んで含めて いくこと」が肝要なのではないでしょうか。 “釈迦に説法”ながら、「わかっていること」≠「できること」ですので…。   

松森憲二拝

園長の「給田だより」(2015年12月号)

2015/12/01 9:12:39

(ぶん)(ひと)なり」  ~佼成からの「“いのち”のお手紙」~

幼稚園から保護者の皆さまにお出しする文書を、総称して「お手紙」と呼ぶのが慣習となっておりますが、その「お手紙」に関して、今年度になっていくつかの保護者の声が、私の耳元に届くようになりました。例えば、「幼稚園からの手紙が多過ぎる」、「どうでもよいことばかりが書かれている」、「わかりやすくないので読む気がしない」等々。ある保育雑誌で、「幼稚園からの文書はそのまま ゴミ箱へという保護者がいる」との信じ難い記事を目にしたことがありましたが、まさか佼成でそんなことは…、と思いつつ、背筋の寒くなる思いがいたしました。文書責任者でもある園長として、保護者の皆さまにそんな発言をさせてしまう責任を痛感する一方で、とても残念な気持ちが湧き起こってきました。というのも、私自身「お手紙」に関しては、強い思い入れがあるからです。

平成24年4月の園長就任以来、佼成学園幼稚園をより良くするためにと、微力ながら努めてまいりましたが、そのために意識してきたことの一つが、「文書にいのち(・・・)を吹き込む」というテーマです。園発行の文書に「?」を抱くようになったのは、園長に就任して間もなくのことでした。「ビジネスライクに徹している」と言えばそれまでですが、30年近く、学生たちとともに、仏教精神に基づくホスピタリティーマインドを学んできた私は、 「できれば、より丁寧な文書を発行したい。その役割を果たすことこそ、私の使命である」と感じてしまったのです。早速、手当たり次第に、発行文書の見直しに着手。その結果ついたあだ名が、「赤ペン先生!」(褒められているニュアンスで ないところが、若干微妙なのですが…。)

 ところで、一口に「お手紙」と言っても、発行目的により、いくつかに分類することができます。

 第一に、「通知文・連絡文」。行事ごとの詳細に関するお知らせはもちろんのこと、月間予定に 関する『月報』などがあげられるでしょう。

 第二に、「案内文・報告文」。学期ごとの『カリキュラム』、園の活動を“見える化”するための 『園だより』などが、それに含まれます。

 第三に、「所感文・挨拶文」。私自身のそのときどきの心境を記した『給田だより』や、園の活動に即して、保護者の皆さまにお願いやお礼を申し述べる『園長通信』が相当します。これらは、   言わば“園長の所信表明”(?)ですが、私の考えを率直にお伝えすることで、保護者の皆さまとの コミュニケーションをより円滑に図ることができるのではないか、と考えております。

 便宜上、上のような分類はできるものの、それは、必ずしも厳密なものではありません。発行  回数を必要以上に増やさないために、お伝えすべきことを直近の「お手紙」でお知らせしているというのが、実際の「お手紙」事情です。従って、一回の「お手紙」に、複数の目的が含まれていることもしばしばございます。保護者の皆さまには、文書名だけで内容を即断することなく、必ずすべての「お手紙」に目をとおしてくださいますよう、お願いいたします。(例えば、学期ごとの『カリキュラム』には、学期中の保育内容が明記されていますが、その保育の充実の一端を担っていただくために、「家庭の協力」という欄を設けております。重要事項が記載されていながら、十分に伝わっていないことが、一つの課題となっております。)

 冒頭の批判への弁明をお許しいただくならば、 「お手紙」は、保護者の皆さまにお伝えすべき  ことを、タイミングを見計らいながら発行いたしております。どの「お手紙」も、保育活動の主役である園児たちが困らないように、園児たちを 戸惑わせることのないようにとの願いを込めて、 保護者の皆さまにお届けしているつもりでございます。その気持ちを、どうかお汲み取りください。

 「お手紙」に限らず、「文書」と言えば、私の脳裏にある言葉が浮かんでまいります。フランスの博物学者ビュフォンの「(ぶん)(ひと)なり(=文章はそれを書いた人柄を表わすものであるということ)」です。保護者の皆さまとの“心の架け橋”となる「お手紙」をお届けすることは、私自身、どれだけ保護者の立場を考え、どれだけ思いやりが込められているかが試される、「自分磨きの修行」と心得ております。今日もまた「“いのち”のお手紙」をお受け取りください。

松森憲二拝                            

園長の「給田だより」(2015年11月号)

2015/11/05 6:52:42

「キラキラ輝く、未来(あした)への扉!」 golden days in this summer

 「夏休みを振り返って」451枚のすべてに、目を通させていただきました。二行で超コンパクトにまとめておられる方から、表裏びっしりと書き込まれた方まで451人451色でしたが、いずれも子を思う温かい親心が伝わってきました。部分的に抜粋した何点かの文章を、各筆者のご了解のもと、短いコメントとともにご紹介いたします。紙面の許す限り多くのエピソードをとの願いから、やむを得ずいつもの「給田だより」より小さな文字サイズとなっております。悪しからずご了承ください。

★まずは、《「できるようになりました」編》です。

トイレでうんちができなかったのが、突然その日はやってきました。「わたしトイレでうんちしてみる~」と、おどろきました。どんなに「トイレがんばろう」と声かけしても、「わたしうんちはおむつでするの」と、親の言うことを聞いてくれなかったのに…。何が娘をそうさせたのか…、家族みんなで大喜びしました。そして、田舎のおじいちゃんちに行ったとき、仏壇に手を合わせたときのこと。「仏さま、今日も一日良い日でありますように」と語りかけるではありませんか。おじいちゃん、おばあちゃんもびっくり、4歳の子が仏さまに話しかける姿に感心していました。(年少女児A)

Aちゃん、トイレでのうんち、おめでとう!そして、おじいちゃん、おばあちゃんの笑顔が目に浮かんできます!

せっかくの夏休みですし、いろいろな場所に連れて 行ってあげたいと思い、不安はありましたが出かけることにしました。ところが、いざ乗り物に乗せてみたら、キチンと椅子に座り、小さな声でお話をするBにビックリ! 聞けば、幼稚園で先生に教えてもらったとのことでした。他にも、食事の仕方や季節の話などたくさんのことを学んでいるのが、毎日の様子を見ていてよくわかりました。(年少男児B)

B君、先生のお話、よく聴けているんだね!

休みの間に、幼稚園のお友だちと遊ぶことが何回かありました。女の子と遊ぶときは、喧嘩のようなことはほとんどありませんが、男同士だと何故かスイッチが入ってしまうことが、年少のときには多々ありました。それが年中の夏休みは、言い合いになりムキになって、ついつい強い口調にはなりますが、徐々にクールダウンし、「ごめんね」の一言がその場で言えるようになりました。以前なら怒ってその場を離れるような感じでしたが、また仲直りして遊ぶことができ、今年の夏は一歩前進したように思いました。自分の我を通そうとするときもありますが、一瞬考えるようになったことに、親としては成長しているなと感じ、嬉しかったです。(年中男児C) 

C君の「ごめんね」、勇気ある一言だね!

王レールランドに遊びに行ったとき、「ミニ京王線」の電車が子どもを乗せて敷地内を走っていました。暑い中、屋外で一日中子どもたちを乗せて走っているのですが、私が「車掌さん、暑い中ずっと電車で走ってて大変だよね」と言うと、Dが「車掌さーん!今日はたくさん寝てくださいねー!」と大声で叫んだのです。笑ってしまいました。人をいたわる気持ちを表す言葉を、いつの間にか学んでいるんだなと感心しました。たくさん寝ると、疲れがとれるとわかっているんですね。また、空港で飛行機を眺めているときに、祖父が「飛行機がたくさんいるね」と言うと、Dは、「違うよ、おじいちゃん!飛行機は(物だから)『あるね』だよ!『いるね』は、人のときでしょ!」と指摘、訂正していました。祖父は苦笑いしていましたが、「よく知っているな」と驚いていました。(年中女児D)

Dちゃん、いつ、どこで教えてもらったの?将来は「言葉の達人」になれそうだね!楽しみにしています!

休み初日と終わりに、幼稚園のお友だちと遊びました。子ども同士たくさん走り回り遊ぶ姿が、誇らしく嬉しく感じました。親のいないところでお友だちとうまく遊べている、言い争いやちょっとした喧嘩はあるけれど、それでも何とかやりとりができているようです。そんな普通の光景に、成長を感じています。これから社会の中で生きていく上で欠かせない人間関係を築く初歩を、幼稚園で学んでいるのだなあ~と、つくづく実感しています。子ども同士の遊びを見ていると、今まで見たことのなかったような表情や発言をします。そんな瞬間にも、成長を感じます。(年中男児E)

E君、上手に仲直りできるようになると、幸せになれるよ!

本をたくさん読みました。1学期の終わりころから、急にスラスラと音読ができるようになり、本を読むことが 楽しくて仕方ない様子です。小学1年生の兄と競争するかのように、とにかく読みました。夏休みの間に図書館へ行って借りた本の数は、60冊を越えました。私が読んで聞かせる回数よりも、私に読んで聞かせてくれる回数の方が多くなり、嬉しい限りです。(年中女児F)

Fちゃん、たくさん本を読んで、思いやりのある人にな~れ!

海外の不自由な生活をしている子どもたちに文具や玩具を袋に詰めておくるボランティア活動に、今年も参加しました。100円ショップで入れる物を選んだり、家で使わないままとっておいたものを、いざ袋に入れようとすると惜しくなってしまう様子。「あなたは欲しくなったらまた買える。でもこの子たちはそれができないんだけど、どう思う?」と問いかけると、しばらく考えて、3つ入りのボールの1つだけを残して、他の2つを袋に自分で入れました。何でもない小さなボールですが、他にもいくつか別なボールがある中で、今でもそれで遊ぶGの姿を見ると、成長を感じ嬉しくなります。(年長男児G) 

G君、物を大事にする心、これからもずっと忘れないでね!

★次は、《「親子の触れ合い」編》です。

休みは、休みの取れない主人にほぼ毎日、仕事場へお茶の差し入れを持っていくのが日課でした。普段 見ることのできない父の姿を見て、「パパ、お仕事頑張ってね!」と毎回伝えてくれました。また家では、洗濯物をたたんだり、食器を片づけてくれたりなど、自分で気づいたことは、いろいろお手伝いしてくれました。この夏休みで、少しお兄さんになれた気がしました。(年少男児H)

H君のエール、パパはどんなにか嬉しかったことでしょう!

いざ出産。入院中を何とか乗り切らせました、退院後は実家に帰省したのですが、一週間ほどたったある日、「3歳じゃまだお姉ちゃんになりたくなかった」と、我慢していたものが爆発しました。こちらもなるべく上の子優先と配慮してはいたつもりでしたが、何の気なしに「お姉ちゃん」という言葉を使い、また呼んでいたことに気付かされました。その日からは思ったことを吐き出させる時間、ギュッと抱きしめ充電する時間を取るようにし、二人とも大好きだという気持ちを、きちんと言葉にして伝えるようにしました。(年少女児I)

Iちゃん、お母さんにギュッとしてもらえて、良かったね!

大笑いしたことは、語気の強いJと喧嘩になり、「ママ、そんな言い方するなら知らない!」と言った私に、Jは怒りながら、無言で絵を描き始めました。そして、できあがった紙を私に渡してニヤリと…。そこには、笑顔のママの似顔絵と「おこりすぎ」の文字が…。大笑いとともに、反省もした場面でした。いつも「何を書けばいい?」などと聞いて手紙を書いていたJでしたが、自分の意志で初めて書いた文が「おこりすぎ」…。その手紙で笑わそうとする気持ちにも、笑みが出ました。冷蔵庫に貼って、毎日の“イラッ”とを抑制するのに、しばらく効き目がありそうです。(年中男児J)

J君の「おこりすぎ」、見事な一本勝ち!

夏休みが終わりに近づいた頃、子どもが突然「早く大人になりたいなあ」と言うので、どうしてか尋ねると、「Kは大人になってママになったら、子どもには何でも買ってあげるの。欲しいものは買ってあげるし、約束とか守らなくても怒らないの。何をしても怒らない、そういうママになるんだあ」と言うのです。びっくりして、絶句してしまいました。子どもの中では、ママはいつも怒っているとか、欲しいものを買ってくれないって思っているんだなあと…。ちょっと切ない気持ちになったと同時に、自分も子どもの頃に、全く同じことを考えていたことを思い出し、笑ってしまいました。(年中女児K)

Kちゃん、大きくなったら、優しいママになってね!

夏休みに、主人の実家に行ったときのことです。いつもは車で行くのですが、初めて電車でLと二人で向かいました。普段はバスや電車などでは座らず立っているよう言っているのですが、そのときは車内が少し混み合っており、一席だけ空いていたので、今回だけはLに座らせておりました。一駅過ぎたところで「ママ!!座っていいよ!」と席を立ちました。私が「どうして?」と聞いたところ、Lは「ママは女の子だから…」と…。私も驚きましたが、近くにいた老夫婦に大変褒められ、実行できたことを大変嬉しく思い、成長しているな…と思いました。幼稚園の環境がLをそうさせているのだと、大変感謝しております。(年長男児L)

L君、男だねえ、あっぱれ!☆☆☆(星三つ!)

★最後は、《「幼稚園があればこそ」編》です。

主人の実家で、お盆の送り火をしましたが、「火をつけてバイバイするんだよ」と、園で知ったことを教えてくれました。園のことを話しする機会の少ないMですが、「迎え火・送り火」のことは印象に残っていたようです。(年少男児M)

M君、お盆まつりのこと、よく覚えていてくれたね!

園での生活がいまひとつわからなかったのですが、園で培った男の友情を垣間見ることができました。夏休みのお遊び会でブランコを始めたNとQ君、どちらの母も、下の子を連れての参加だったので、背中を押してあげることができませんでした。様子を見ていると二人で協力して順番に押して遊んでいました。押し手が下手で、全く動いていませんでしたが…。とても感動しました。そして、しばらくしてNが女の子と物を取り合いし私に注意されスネてしまい…。遠くの場所に 歩いていきました。すると、Q君は何も言わずに息子について行き、何を話すわけでもなく一緒にいて、こちらを眺めていました(笑)。二人の間に言葉はいらず、ただ一緒にいるだけで分かり合える“男の友情”に見えました♪(年少男児N) 

N君、Q君との男の友情、いつまでも大切にね!

いとこのR君と一緒に、「おかあさんといっしょ一緒スペシャルステージ」に出かけました。歌やダンスがたくさんあり、キャラクターたちも登場して、Oは終始歌ったり踊ったりと堪能していました。途中の「月夜のぽんちゃらりん」の曲だけは、幼稚園のお盆まつり用の振り付けで踊ってくれました。Oだけでなく、R君も。夏休みに入っても、幼稚園で習ったことを二人がしっかり覚えていてくれたことを、ママたちはとても嬉しく感じていました。(年少女児O)

Oちゃん、園長先生もテレビの前で、ポンポコやりました!

いよいよ夏休みに入り、「明日は幼稚園ある?」と毎朝聞いてきました。10日くらい過ぎたあたりから、聞かなくなりました。そして、夏季保育が始まる頃には、「え?なんで?」「もう、幼稚園は辞めたんだから!」休みが長く続き、辞めたと思っていたのでした。「また、幼稚園入ったよ!」と言うと、「ヤッター!」と楽しく通い始めました。(年少女児P) 

Pちゃん、また入園してくれて(?)、ありがとう!

子どもたちの輝く姿のご報告に、心から感謝しています。「夏の日の 思い出詰まる 子育て記」

(二代目求道) 松森憲二拝

園長の「給田だより」(2015年10月号)

2015/10/02 7:09:08

「子どもは“一人前の自分”を生きている!」 まず「受容」から始めよう!

少し前のことになって恐縮ですが、一学期初めの頃の出来事です。入園して間もないKちゃんは、バスを降りるとまっしぐらに玄関の私を目指し、「園長先生~」と言って抱きついてきます。もちろん私も、「Kちゃん、おはようございます」と言って、両腕でハグ。「親御さんの愛情をたっぷり受け、スクスクと育ててもらっているんだろうな」と思いながら、毎朝Kちゃんと心温まる交歓を続けておりました。ある日のこと、Kちゃんは、私を抱っこしながら「頑張ってね(!?)」とつぶやきました。(抱っこされているのは、あくまでも私であって、「Kちゃんが抱っこしているんだよ」というオーラが伝わってきます。)さらに、別の日の帰り際には、玄関で、何と「園長先生、頑張ったね」(!!)の一言を残してバスに乗車していきました。ママや担任の口ぶりを、そのまま真似したのかもしれませんが、Kちゃんの「上から目線」(?)は、決して不快ではなく、むしろ喜ばしくさえ感じたのです。同時に、Kちゃんにとっては何気ない一言が、私に大きなインパクトを与えてくれました。少し大袈裟に言えば、“悟り”に近い感覚です。「そうか。わずか3歳の子どもであっても、本人は自分自身のことを、“一人前”の自分だという意識を持っているに違いない」という気づきに、目から鱗が落ちた思いがいたしました。

私たち大人は、日頃、子どもたち(特に幼児)をどんな目で眺めているでしょうか。当然のごとく、「年端(としは)のいかぬ幼子」と見ています。一方、当の子どもたちは、自分自身のことをどのように見ているのでしょう。「自分のことを幼い」と思っているでしょうか。大人に比べて劣っているとか、未熟な人間だとか、そのような感覚でとらえているとは思えません。悲しいことではありますが、虐待を受けて気力を喪失していたり、親や周囲からよほど「あんたはダメな子」とディスカウント(心理学用語で、自分の価値を値引きすること。)されてきた子どもならば、もしかするとそういう感情が潜んでいるかも…。しかし、それはあくまでも稀なケースであり、ごく普通に健やかに育ってきた子どもならば、自分のことを“一人前のこども”と思っているに違いありません。つまり、子どもは、“一人前”としてその子自身を生きているのです。この“一人前”という思いこそが、子どもたち自身の宝物であり、現代の子どもたちに欠けていると言われる「自己肯定感」の土台であると、確信しております。その“一人前”の思いが温かく育まれるのか、冷淡に打ち砕かれるのかは、大人の関わり方ひとつで決まってしまいます。例えば3歳の子どもならば、自分のことを“一人前の3歳”と思っているのですから、その“一人前”という自覚を傷つけることのないよう、十二分に心したいものです。

子育ての本に必ず出てくる、「子どもと同じ目の高さになりましょう!」は、文字通り身体を低くして、子どもと目線を合わせることを意味しています。しかし、それだけではないはずです。大人が子どもの意識にできる限り近づいていくこと、つまり、「子どものありのまま(“一人前”という意識)を100%受容していこうとする姿勢」をも含んでいると、私は思います。

私のモットーの一つに、「1J3K」がございます。(「女子高生」を意味する「JK」とは違いますので、念のため…。)これは、人間関係を円滑にしていくための心構えを、私なりにセレクトしたものですが、最も基本となるものが、一つのJである「受容」(=受け入れて取りこむこと)です。3Kとは、「呼応」(=一方のものが呼べば相手が応答すること)、「傾聴」(=熱心に聴くこと)、「感謝」(=ありがたく感じて謝意を表すること)のことです。人さまに向き合うとき、いつしか、これらの言葉を心の指針・支えとするようになりました。子どもに向き合うときも、基本的な姿勢に変わりはありません。園児の存在自体を心底から受け入れ、呼ばれれば「ハーイ」と返事をしながら手を振り、子どもの言葉と心に耳を傾け、日々の出会いを有り難く思う。思えば、園長のなすべきことは、この「1J3K」に尽きるような気がしてなりません。

幼いながらも自分のことを“一人前”と受け止めてもらえる喜びは、さぞかし大きいことでしょう。ご家族の皆さま、お子さまを目の前にしたとき、特に何かで注意をしなければならないときには、まず心の中で「一人前の○○  ちゃん」と一回、いや三回唱えることを、心からお勧めいたします。Let’s  try.

松森憲二拝